2020-07-17

スリランカの歴史③スリランカ建国神話 先アヌラーダプラ時代


 スリランカの歴史をご紹介する第3回、今まで通史の概要をご紹介してきましたが、今回から各時代に焦点を当ててみていきます。まずはスリランカの建国神話に関する時代から見ていきましょう。特に時代の名称があるわけではありませんが、ここではこの後に長く都がおかれて続いていくアヌラーダプラ時代に先んじる時代ということで、先アヌラーダプラ時代としてご紹介します。

1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.動乱期(13世紀末~1505年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)



■スリランカ建国神話


スリランカにはもともと土着の人々が暮らしていましたが、スリランカの歴史は通史での多数派であるシンハラ人の立場で語られるため、シンハラ人王朝の成立からがスリランカの歴史として語られています。スリランカでのシンハラ王朝の成立はヴィジャヤ王子という人物から始まっており、これの真偽は明らかではありませんが、まずはヴィジャヤ王子に関わる伝説から辿っていきます。

 後にシンハラ人の祖となるヴィジャヤ王子はもともとインドからやってきたと言われています。インドのヴァンガ国(現在のベンガル周辺)の王とカリンガ国(現在のオリッサ周辺)の姫が結婚し、娘スッパデビが生まれます。成長したスッパデビはライオンとの間に子を設け、男児シンバーフとその妹シンハシアヴァリが生まれました。2人の子は後に結婚して32人の子どもを設け、この長男がウィジャヤ王子です。

 シンバーフは現在のグジャラート(又はオリッサ)にシンハプラ王国を建国し、成長したヴィジャヤ王子は自らの信者や従者総勢700人とともに新天地としてスリランカへ上陸します。伝説では仏陀の命日に初めてスリランカの地を踏んだとも言われていますが、上陸は紀元前483年と伝えられています(※実際の上陸は543年頃など、他諸説あり)。

 スリランカ上陸後のヴィジャヤ王子は、土着のヤッカス族・ナーガ族を従属させてヤッカス族の女王クヴェニと結婚し、スリランカ中部西海岸(現在のチラウ周辺)にタンバパニ王国を建国します。ウィジャヤとその従者たちの子孫がシンハラ人となるため、スリランカではヴィジャヤがシンハラ人の祖であり、この王国がスリランカ初のシンハラ人王朝として伝えられています。

女王クヴェニに関係すると言われるウィルパットゥ国立公園内の遺跡。まだ詳細な調査は行われていません。


 ヴィジャヤは晩年に弟のスミッタに王権を譲ろうとしますが、スミッタもまた高齢であったため、スミッタは自身の息子パンドゥワスに王権を譲ります。しかしパンドゥワスはインドで既に自身の王国の王を務めていたため、彼が代わりの王をたててスリランカへやってくるまではウィジャヤの側近であったウパティッサが王を務めます。ウパティッサは紀元前505年に都を移してウパティッサ・ヌワラ(ウパティッサの都の意、現在のマンナル周辺)を建国し、パンドゥワスの到着までの短い間でしたが、摂政として王権を引き継ぎました。

 翌 紀元前504年にはパンドゥワスがスリランカへ上陸、新しく都をパンドゥワス・ラタ(パンドゥワスの地)と改め、シンハラ人の王として正式に王権を引き継ぎました。その後、王権は彼の子のアブハヤ、アブハヤの弟ティッサへと引き継がれます。ティッサは彼の甥であるパンドゥカバハヤ王によって倒され、パンドゥカバハヤ王はその後長く都となるアヌラーダプラの都を建設しました。


ヴィジャヤに関する記述はかなり時代が下った後の紀元後5世紀ごろまでに編纂された『マハーワンサ(大王統史)』によるものですが、記述は伝説的に語られる部分が多く、史実としての信憑性は低いと考えられています。ヴィジャヤの出自はインドのアーリヤ系であり、仏陀の命日にスリランカへ上陸した、というストーリーは、おそらく既に仏教大国となっていた当時のシンハラ人王朝のルーツに神話的な正当性を付与するためのものであったという説です。とはいえ現在でも、スリランカの原点はヴィジャヤにある、というのは
一般的な考えとしてスリランカの人々に受容されています。



■王都アヌラーダプラの建設とタミル人の侵入


 パンドゥカバハヤは新たな都として紀元前437年にアヌラーダプラを建設し、従来の王権を引き継いでラジャ・ラタ(王の国の意)王国を建国します。彼は名君として知られ、王国の区画の整理や都での貯水池の建設など、王国としての整備を推し進めました。彼の生誕には、生まれる前から叔父たちに殺される予定にあること、それを避けるために母親によって村の牧畜民の子と交換され牧童として育つこと、後に叔父たちを倒して王となることなど、インドのクリシュナ神の神話を彷彿とさせるストーリーが残っており、シンハラ人の英雄として少なからず神格化されていたと考えられています。

 パンドゥカバハヤの後もアヌラーダプラの繁栄は続き、紀元前250年にはインドのアショカ王の子:マヒンダが使者としてスリランカを訪れ、仏教を伝えています。当時のティッサ王は仏教に帰依し、マヒンダのためにマハーヴィーラ(大寺)を建設しました。ここから王権と仏教は密接に結びつき、仏教は国家宗教としてシンハラ人の間で熱心に信仰されるようになります。各地にも仏教寺院が建立され、特にアヌラーダプラは仏教の一大センターとして繁栄します。

紀元前3世紀にインドのブッダガヤの菩提樹の分木がティッサ王によって植樹されたもの。
アヌラーダプラは現在も仏教聖地として多くの巡礼者が訪れます。


 しかしアヌラーダプラの政権が強固になると同時期に、南インドからのタミル人の侵入が激しくなり、シンハラ人王朝と衝突し始めます。アヌラーダプラは度々タミル人に数十年間という長期間の占領を受け、以降スリランカの歴史を通してシンハラ人と対立していきます。シンハラ人がアヌラーダプラを奪回するのは後の紀元前161年、ドゥッタガマーニー王によるものでした。

 ドゥッタガマーニーは当時いくつか存在していたスリランカ内のシンハラ人王国に対して支配的な存在となり、スリランカを始めて統一した王として、ヴィジャヤ以来の偉大な王として伝えられています。彼の治世以降、本格的にアヌラーダプラを都とする時代が続いていきます。


Text by Okada