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2020-08-07

スリランカの歴史⑤ ポロンナルワ時代

 スリランカの歴史を紹介する第5回。今回はポロンナルワ時代をご紹介します。


ポロンナルワはスリランカ中央部に位置し、従来の都アヌラーダプラから南東に約80㎞離れた町です。チョーラ朝によってアヌラーダプラが占拠されたため、よりチョーラ朝の影響の及びにくい南方の代替の都として発展していきます。


1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)








■ヴィジャヤバーフ1世の治世


11世紀初頭は南インドのタミル人国家チョーラ朝がラージャラージャ1世、そしてその後継であるラージェンドラ1世の治世で最盛期を迎え、スリランカもその支配のもとに組み込まれます。しかし1055年、スリランカでシンハラ人の王ヴィジャヤバーフ1世はチョーラ朝に対しての抵抗運動を開始し、1070年にチョーラ朝の内政抗争の隙をついて蜂起、1073年にはポロンナルワを奪還します。この際には同じく南インドのタミル人国家ですが、チョーラ朝に敵対していたパンディーヤ朝、またスリランカと同じくチョーラ朝の支配下にあったミャンマーのビルマ人王朝:パガン朝などからの支援もあったようです。


ヴィジャヤバーフ1世は南部のルフナ王国の出身です。スリランカはこれまで大きく3つの地域勢力に分かれており、北部のラジャ王国、南部のルフナ王国、コロンボ周辺のダッキナデサ王国がそれぞれ存在していました。アヌラーダプラやポロンナルワを擁し最大の勢力だったのが島の中央部から北部沿岸までを支配域としたラジャ王国で、これまでのシンハラ人王朝でも他の2勢力に対して支配的な立場にあった勢力です。ヴィジャヤバーフ1世はまず南部の自国ルフナ王国からチョーラ朝の勢力を追放し、徐々に北上してシンハラ人の支配域を奪還していきました。


ヴィジャヤバーフ1世はポロンナルワ王国の国王として即位し、都のポロンナルワは王の名から「ヴィジャヤラジャプラ」と改称されました。その後、ヴィジャヤバーフ1世は国の再興を目指して尽力します。およそ1世紀に渡って従来の都アヌラーダプラを占拠されていた間に、スリランカからは仏教僧が減り、仏教の信仰自体が衰退していました。ヴィジャヤバーフ1世はミャンマーのパガン朝から僧を招き、仏教国としての再建を目指します。また、聖地であるスリ・パダ(スリランカ最高峰のアダムス・ピーク)への巡礼の道を整備し、巡礼路の街の整備も進めて行きます。さらに、新たな貯水池を建設し、灌漑システムを再構築するなど大規模な公共事業を行い、首都の整備も進めて行きます。


ヴィジャヤバーフ1世の建設したアタダーゲ。王権の象徴である仏歯を祀った寺院跡です。



ヴィジャヤバーフ1世は1110年に亡くなるまでの55年間、ポロンナルワの王として君臨し、老齢になるまでの長い支配にちなんで「マハー・ヴィジャヤバーフ」(偉大なるヴィジャヤバーフ)と呼ばれます。現在のスリランカ陸軍の歩兵隊はこの偉大な王の名をとって「Vijayabahu Infantry Regiment」(ヴィジャヤバーフ歩兵連隊)と名付けられています。


この時代はラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力はポロンナルワ王国の下に統治されていましたが、ヴィジャヤバーフ1世の死後はまた王権を巡って3勢力間の抗争が続きます。



■パラークラマバーフ1世の治世

ヴィクラマバーフ1世の死後は彼の兄弟や息子たちの治世が続き、またラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力が王権を巡って争う状況が続きました。その中で、3勢力の権力を掌握しスリランカ全島を支配下に置いたのがヴィジャヤバーフ1世の孫、パラークラマバーフ1世です。


パラークラマバーフ1世はコロンボ周辺の勢力、ダッキナデサの王家の出身です。叔父から王位を継いだパラークラマバーフ1世はガジャ国の王ガジャバーフを破ってポロンナルワを獲得し、またガジャ国と同盟を組んでいたルフナ国勢力による攻撃を退け、1153年にスリランカ島の全権を掌握するに至ります。ポロンナルワを都としたパラークラマバーフ1世は、ヴィジャヤバーフ1世と同様に仏教寺院や灌漑設備の建設を進め、33年間の治世の間にポロンナルワは大きく発展していきます。


パラークラマバーフ1世の建設した貯水池はパラクラマサムドラとして知られ、従来からあった貯水池を拡充し、さらに新たな貯水池を追加したものです。面積22㎢に及ぶ巨大な貯水池は現在でも貴重な水源として利用されています。また、ポロンナルワ宮殿やガル・ヴィハーラ等、ポロンナルワに残る遺跡の多くもパラークラマバーフ1世の治世で建設されたものです。彼自身の石像と呼ばれるレリーフも残されています。


パラークラマバーフ1世と伝えられる石像(モデルについては他諸説あり)



ポロンナルワ王宮跡

ガル・ヴィハーラの仏像



また、パラークラマバーフ1世は周辺諸国に対しても影響力を増していきます。友好関係にあったミャンマーのパガン朝でシンハラ人の使者を捕らえたことに抗議して軍を派遣し、また南インドのタミル人に対しても牽制措置をとっています。アダムス・ブリッジのあるポーク海峡を隔ててスリランカと接するラメスワラムにシンハラ人の街を建設し、チョーラ朝やパンディヤ朝といった南インドの国家に対してある程度の支配力を維持していました。


また、仏教を通しての周辺諸国との交流も密接で、ポロンナルワには度々タイ、ミャンマー、カンボジア等から仏教僧が訪れていたこともわかっています。トゥマハル・プラサーダはタイの上座部仏教の寺院に類似した仏塔で、タイからの僧、建築士によって建てられたものと考えらえています。


トゥマハル・プラサーダ


ポロンナルワ王国の下でのスリランカの統一、またその統治下での文化の興隆から名君として知られるパラークラマバーフ1世ですが、度重なる遠征や公共事業のために大量の資金を費やし、また国民にも重い税を課しており、国家としての財政状況は芳しくなかったようです。後の統治者であるニッサンカ・マッラの治世では、最も民衆の支持を受けた政策はあまりにも高すぎる税率の引き下げだったそうです。


しかしパラークラマバーフ1世の人気は絶大なもので、次の400年の間にはパラークラマバーフ1世の名を自身の名に採用する君主が7人以上存在していたと伝えられています。また、現在のスリランカ海軍の船にもパラークラマバーフ1世にちなんで名づけられた2隻の軍船が存在しています。



■ニッサンカ・マッラの治世

パラークラマバーフ1世の死後は従弟のヴィジャヤバーフ2世が王権を引き継ぎます。そしてこのヴィジャヤバーフ2世が副王として選んだのがニッサンカ・マッラでした。


ニッサンカ・マッラはスリランカではなく、インドのカリンガ国の出身です。カリンガ国はシンハラ人の祖:ヴィジャヤ王のルーツとなる地であり、ニッサンカ・マッラ自身もヴィジャヤの血を継ぐ者として王権を持つと考えられました。副王としてスリランカに招かれたニッサンカ・マッラはヴィジャヤバーフ2世の王権を継ぐはずでしたが、ヴィジャヤバーフ2世はニッサンカ・マッラと同じくカリンガ国出身のマヒンダ6世によって殺害され、マヒンダ6世が王権を強奪します。


しかしその僅か6日後にニッサンカ・マッラはマヒンダ6世を粛正、ポロンナルワの王として即位します。ニッサンカ・マッラはパラークラマバーフ1世の意思を継ぎ多くの仏教寺院を建設、また貯水池など灌漑設備の拡充に努めました。ポロンナルワに残るランコトゥ・ヴィハーラ、ニッサンカ・ラタ・マンダパヤ、ハタダーゲなどの建築は彼の治世で建設されたものです。また、ミャンマーのパガン朝やカンボジアなどの遠隔地とも良好な関係を築き、南インドに対しても牽制を続けるなど対外政策にも優れた政策を行っていました。カリンガ国出身の王という異色の出自でしたが、人徳のある王として称えられたと伝えられています。

ポロンナルワ最大の仏塔:ランコトゥ・ヴィハーラ


ニッサンカ・マッラが僧の読経を聞いていたというラタ・マンダパヤ



王宮内のニッサンカ・マッラの沐浴場








■ポロンナルワ王国 黄金時代の終焉


民への重税の緩和もあり人気の高かったニッサンカ・マッラですが、パラークラマバーフ1世と同じく多くの公共事業を行ったため、次第に国の資金は枯渇していきました。黄金時代とも呼べるポロンナルワ王国はニッサンカ・マッラの死後急激に弱体化し、再び南インドのタミル人国家による侵入を受けていきます。


1200年にはスリランカ島北端のジャフナ半島にタミル人の入植がはじまり、後の1300年にはタミル人国家ジャフナ王国が建国されます。また、カリンガ国出身のタミル人:マーガ王がジャフナ半島からスリランカへ侵攻し、1215年にはポロンナルワを占領しています。シンハラ人は王権の象徴である仏歯をポロンナルワから持ち出し、以降はスリランカの南部へと遷都を繰り返していくこととなりました。


マーガ王はその後シンハラ人のヴィジャヤバーフ3世の抵抗運動によって廃され、1287年にはシンハラ人によってポロンナルワが奪還されました。しかし1293年にヴィジャヤバーフ3世の治世が終わった後にポロンナルワは放棄され、1900年代のイギリス統治下で発掘が始まるまでジャングルに埋もれることになります。


ポロンナルワ王国の終焉の後、スリランカでは小国シンハラ人とタミル人の各国家が併存する動乱期に入っていきます。



Text by Okada










2020-07-31

スリランカの歴史④ アヌラーダプラ時代

スリランカの歴史を辿る第3回。今回は、アヌラーダブラに都を移した後、スリランカ全土に対して支配力を持つようになった時代として、アヌラーダプラ時代についてご紹介します。

アヌラーダプラは古くからの都、そして仏教聖地として1982年に世界遺産に登録されており、スリランカの主要な観光地となっています。また周辺の観光地へのアクセスも良いため、北部スリランカの観光の拠点としても利用される街です。

1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.動乱期(13世紀末~1505年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)



■ドゥッタガマニ王によるアヌラーダプラの奪回


紀元前437年にパンドゥカバハヤによって都が開かれ繁栄を誇ったアヌラーダブラですが、紀元前3世紀から南インドのタミル人国家による侵入を受け始め、紀元前3世紀末にはアヌラーダプラを占領されます。その後44年間にわたってアヌラーダプラを占領したチョーラ朝のエララという人物は、後に彼を打倒するシンハラの王:ドゥッタガマニの宿敵としてマハーワンサ(古代スリランカの歴史と伝説を記した物語)にも登場しています。

紀元前161年、シンハラ人の王ドゥッタガマニはエララを退けてアヌラーダプラを奪還します。ドゥッタガマニは英雄的な存在として語られ、再建を遂げたアヌラーダプラ王国はスリランカ史上初めてスリランカ全土に対して支配的な影響力を持つようになりました。

ドゥッタガマニは仏教の再興にも尽力し、アヌラーダプラにも多くの仏教寺院を建設します。中でも最大規模のものがルワンウェリサーヤ仏塔で、これには仏陀の托鉢が埋葬されていると言われています。ドゥッタガマニ自身がこの建設を監督し、完成の際にはインドからも様々な地域の代表団が訪問したと伝えられています。高さ90m、直径91mの巨大な仏塔は現在でもアヌラーダプラのシンボルとなっています。

ルワンウェリサーヤ仏塔


しかし英雄ドゥッタガマニの跡を継いだワラガムバーフ王は再びタミル人国家の侵略を受けて王位を剥奪され、以降再びタミル人国家による支配が続きます。シンハラ人王朝が都を奪還するのは紀元後3世紀に入ったころで、これを指揮したマハーセーナ王は数多くの灌漑用貯水池や運河を建設したことでも知られています。しかし王国は一時安定したものの、これ以降も継続的にタミル人国家との攻防が続き、何度もアヌラーダプラの占領と奪回を繰り返していくことになります。



■王都シギリヤとカッサパ王


タミル人による占領期を除いて基本的にはアヌラーダプラに都がおかれましたが、途中で都が移されたのがスリランカの観光地の中でも随一の人気を誇るシギリヤです。遷都を断行したカッサパ王の物語はよく知られています。

紀元後5世紀、タミル人に占領されていたアヌラーダブラを奪還したのがカッサパ王の父であるダートゥセーナでした。ダートゥセーナにはカッサパとその弟モッガラーナという2人の王位継承権を持つ息子がいましたが、2人は母親が違い、カッサパの母は平民の出身、モッガラーナの母は王族の出身でした。カッサパはこれによって自分に王位が継承されないことを憂い、477年にクーデターを起こしてダートゥセーナを監禁、強権的に王位を継承します。それに続き、王位を奪われることを恐れて弟のモッガラーナの殺害をもくろみますが、モッガラーナは危機を察知して南インドへ亡命していました。

古くからの都アヌラーダブラでは先王ダートゥセーナ派の力が強かったため、攻撃を恐れたカッサパは新たな都としてシギリヤを選び、シギリヤロックの岩上に7年の歳月を費やして王宮を建設します。その後、シギリヤの都はカッサパの治世の終わる495年まで存続しました。


都が置かれたシギリヤ・ロック

岩上からの風景と王宮跡


カッサパの弟モッガラーナは南インドから王権奪取のためにシギリヤに侵攻。カッサパはこの際に自害し、王権はモッガラーナへ移り、モッガラーナによってシギリヤの都は廃され、再びアヌラーダプラへと都が戻りました。シギリヤは仏教僧へ寄進されることになり、その後13~14世紀までは修道院として機能していましたが、以降はキャンディ王国による利用の記録が残るのみです。長く忘れ去られていたシギリヤの都は、その後1887年にイギリス人によって岩壁に描かれたシギリヤ・レディが発見されたことを契機に発見され、現在ではスリランカを代表する名跡として知られるようになりました。

シギリヤ発見の契機となったフレスコ画 シギリヤ・レディ



■ポロンナルワへの遷都


491年にモッガラーナによって再び都がおかれたアヌラーダプラは繁栄を迎えますが、やはり継続して南インドのタミル系諸国、パーンディヤ朝やチョーラ朝からの侵攻を受けていました。度重なる侵攻を受け、769年には南東へ約80㎞離れたポロンナルワへと遷都します。チョーラ朝はその後993年にはアヌラーダプラを占領して支配下に置き、さらに1017年にはチョーラ朝のラージャラージャ1世によってシンハラ人のマヒンダ王が捕らえられ、その代わりとしてタミル人の総督を置くことでポロンナルワとスリランカ全域を支配下に収めました。

チョーラ朝のラージャラージャ1世は南インドで抗争を続けていたパーンディヤ朝を破り、また同じく南インドのケララ、またスリランカ、モルディブにまで支配力を広げ、チョーラ朝最盛期の礎を作った英傑と称えられる人物であり、その名も「王の中の王」を意味します。ラージャラージャ1世がチョーラ朝の都:タンジャブールに7年間かけて建設したブリハディーシュワラ寺院はドラヴィダ建築の最高峰とも呼ばれ、当時のチョーラ朝の繁栄を見ることができます。

南インド、タンジャブールのブリハディーシュワラ寺院


彼の息子として王位を継いだラージェンドラ1世の時代にチョーラ朝は最盛期を迎え、11世紀初頭にはさらなる領土拡大のために北インドのガンジス川流域やスマトラ島まで遠征をするに至っています。


しかし、シンハラ人王朝では1055年にヴィジャヤバーフ王がチョーラ朝支配に対しての蜂起運動を開始。1070年にチョーラ朝の王位が空位になった際の内政不安に乗じて反乱を起こし、チョーラ朝勢力の大半をスリランカから追放します。勢力を盛り返したシンハラ人側は1073年にポロンナルワを奪還し、ヴィジャヤバーフ王はチョーラ朝占領の間に廃れていた仏教の再興のために尽力します。

この後、ヴィジャヤバーフ王の孫:バラークラマバーフ王の時代にスリランカは再びシンハラ人王権の下に統一され、ポロンナルワは仏教聖地として国際的にも存在感のある都へと成長していくことになります。


Text by Okada

2020-07-17

スリランカの歴史③スリランカ建国神話 先アヌラーダプラ時代


 スリランカの歴史をご紹介する第3回、今まで通史の概要をご紹介してきましたが、今回から各時代に焦点を当ててみていきます。まずはスリランカの建国神話に関する時代から見ていきましょう。特に時代の名称があるわけではありませんが、ここではこの後に長く都がおかれて続いていくアヌラーダプラ時代に先んじる時代ということで、先アヌラーダプラ時代としてご紹介します。

1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.動乱期(13世紀末~1505年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)



■スリランカ建国神話


スリランカにはもともと土着の人々が暮らしていましたが、スリランカの歴史は通史での多数派であるシンハラ人の立場で語られるため、シンハラ人王朝の成立からがスリランカの歴史として語られています。スリランカでのシンハラ王朝の成立はヴィジャヤ王子という人物から始まっており、これの真偽は明らかではありませんが、まずはヴィジャヤ王子に関わる伝説から辿っていきます。

 後にシンハラ人の祖となるヴィジャヤ王子はもともとインドからやってきたと言われています。インドのヴァンガ国(現在のベンガル周辺)の王とカリンガ国(現在のオリッサ周辺)の姫が結婚し、娘スッパデビが生まれます。成長したスッパデビはライオンとの間に子を設け、男児シンバーフとその妹シンハシアヴァリが生まれました。2人の子は後に結婚して32人の子どもを設け、この長男がウィジャヤ王子です。

 シンバーフは現在のグジャラート(又はオリッサ)にシンハプラ王国を建国し、成長したヴィジャヤ王子は自らの信者や従者総勢700人とともに新天地としてスリランカへ上陸します。伝説では仏陀の命日に初めてスリランカの地を踏んだとも言われていますが、上陸は紀元前483年と伝えられています(※実際の上陸は543年頃など、他諸説あり)。

 スリランカ上陸後のヴィジャヤ王子は、土着のヤッカス族・ナーガ族を従属させてヤッカス族の女王クヴェニと結婚し、スリランカ中部西海岸(現在のチラウ周辺)にタンバパニ王国を建国します。ウィジャヤとその従者たちの子孫がシンハラ人となるため、スリランカではヴィジャヤがシンハラ人の祖であり、この王国がスリランカ初のシンハラ人王朝として伝えられています。

女王クヴェニに関係すると言われるウィルパットゥ国立公園内の遺跡。まだ詳細な調査は行われていません。


 ヴィジャヤは晩年に弟のスミッタに王権を譲ろうとしますが、スミッタもまた高齢であったため、スミッタは自身の息子パンドゥワスに王権を譲ります。しかしパンドゥワスはインドで既に自身の王国の王を務めていたため、彼が代わりの王をたててスリランカへやってくるまではウィジャヤの側近であったウパティッサが王を務めます。ウパティッサは紀元前505年に都を移してウパティッサ・ヌワラ(ウパティッサの都の意、現在のマンナル周辺)を建国し、パンドゥワスの到着までの短い間でしたが、摂政として王権を引き継ぎました。

 翌 紀元前504年にはパンドゥワスがスリランカへ上陸、新しく都をパンドゥワス・ラタ(パンドゥワスの地)と改め、シンハラ人の王として正式に王権を引き継ぎました。その後、王権は彼の子のアブハヤ、アブハヤの弟ティッサへと引き継がれます。ティッサは彼の甥であるパンドゥカバハヤ王によって倒され、パンドゥカバハヤ王はその後長く都となるアヌラーダプラの都を建設しました。


ヴィジャヤに関する記述はかなり時代が下った後の紀元後5世紀ごろまでに編纂された『マハーワンサ(大王統史)』によるものですが、記述は伝説的に語られる部分が多く、史実としての信憑性は低いと考えられています。ヴィジャヤの出自はインドのアーリヤ系であり、仏陀の命日にスリランカへ上陸した、というストーリーは、おそらく既に仏教大国となっていた当時のシンハラ人王朝のルーツに神話的な正当性を付与するためのものであったという説です。とはいえ現在でも、スリランカの原点はヴィジャヤにある、というのは
一般的な考えとしてスリランカの人々に受容されています。



■王都アヌラーダプラの建設とタミル人の侵入


 パンドゥカバハヤは新たな都として紀元前437年にアヌラーダプラを建設し、従来の王権を引き継いでラジャ・ラタ(王の国の意)王国を建国します。彼は名君として知られ、王国の区画の整理や都での貯水池の建設など、王国としての整備を推し進めました。彼の生誕には、生まれる前から叔父たちに殺される予定にあること、それを避けるために母親によって村の牧畜民の子と交換され牧童として育つこと、後に叔父たちを倒して王となることなど、インドのクリシュナ神の神話を彷彿とさせるストーリーが残っており、シンハラ人の英雄として少なからず神格化されていたと考えられています。

 パンドゥカバハヤの後もアヌラーダプラの繁栄は続き、紀元前250年にはインドのアショカ王の子:マヒンダが使者としてスリランカを訪れ、仏教を伝えています。当時のティッサ王は仏教に帰依し、マヒンダのためにマハーヴィーラ(大寺)を建設しました。ここから王権と仏教は密接に結びつき、仏教は国家宗教としてシンハラ人の間で熱心に信仰されるようになります。各地にも仏教寺院が建立され、特にアヌラーダプラは仏教の一大センターとして繁栄します。

紀元前3世紀にインドのブッダガヤの菩提樹の分木がティッサ王によって植樹されたもの。
アヌラーダプラは現在も仏教聖地として多くの巡礼者が訪れます。


 しかしアヌラーダプラの政権が強固になると同時期に、南インドからのタミル人の侵入が激しくなり、シンハラ人王朝と衝突し始めます。アヌラーダプラは度々タミル人に数十年間という長期間の占領を受け、以降スリランカの歴史を通してシンハラ人と対立していきます。シンハラ人がアヌラーダプラを奪回するのは後の紀元前161年、ドゥッタガマーニー王によるものでした。

 ドゥッタガマーニーは当時いくつか存在していたスリランカ内のシンハラ人王国に対して支配的な存在となり、スリランカを始めて統一した王として、ヴィジャヤ以来の偉大な王として伝えられています。彼の治世以降、本格的にアヌラーダプラを都とする時代が続いていきます。


Text by Okada

 

2020-06-26

スリランカの歴史① スリランカ通史概説 前編



スリランカの歴史は大変深く、記録に残されているものだけでも2500年以上の歴史を持っています。紀元前5世紀のシンハラ人の王朝の成立以降、13世紀末までは南インドからのタミル人国家との攻防を繰り返しますが、15世紀以降はポルトガル・オランダ、そしてその後第二次世界大戦終結後の独立まではイギリスの植民地としての歴史を歩み、独立後も長い内戦が続き、現在のスリランカへ至っています。

今回からは欧米の植民地支配、独立後の内戦とその2500年の歴史を9つに分けて、スリランカの歴史を追っていきます。各節は非常に簡単な概略ですが、今回はポルトガルの植民地支配の始まりまでの歴史をご紹介します。


1.       スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)
2.       アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.       ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.       動乱期(13世紀末~1505年)

(以下次回更新)
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)


1.スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)


 スリランカの歴史の始まりは紀元前483年と言われています。これは北インドのアーリア系の民族であったウィジャヤ王がスリランカへ渡りシンハラ人の祖となったというものです。この記述自体は紀元後5世紀に入ってから編まれた歴史書「マハーワンサ」に記されたものであり、事実としての信憑性は否定的に取られていますが、伝説としてスリランカ内外に広く知られています。

ウィジャヤ王の妻であるスリランカのクヴェニ女王に関係すると言われる遺跡(ウィルパットゥ国立公園内)


 紀元前377年には首都アヌラーダブラが建設され、その後紀元前250年にインドのマウリヤ朝の王:アショーカの使者であるマヒンダが仏教を伝えたとされています。シンハラ王朝は仏教に帰依して多数の仏教施設を建設し、仏教は国家宗教として発展していきます。

 また、紀元前3世紀末から南インドのタミル人がスリランカに侵入を始め、紀元前210年にはタミル人がアヌラーダブラを征服します。これ以降、スリランカでは常にシンハラ人とタミル人の王朝の攻防が続いていきます。



2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)


 紀元前161年、シンハラ王朝の王ドゥッタガマーニーがタミル人をアヌラーダブラから追放し、初めてスリランカ全域の統一支配を成し遂げます。その後もシンハラ王朝は基本的にアヌラーダブラを都としますが、何度もタミル人による征服を受け、またその度にタミル人を追放して都を奪還しています。

 この間に11年間だけ都として使われたのがスリランカの世界遺産として有名なシギリヤの都です。シギリヤの建設者であるカッサバ王は、タミル人からアヌラーダブラを奪還した父王を殺してシギリヤに新たな都を建設しますが、弟のモッガラーナによって王権を奪われ、その後また都はアヌラーダブラへ戻されています。

 アヌラーダブラは仏教の中心センターとして、また灌漑に支えられた穀倉地帯として栄えますが、継続してタミル系王朝の侵攻を受けていました。紀元前769年には侵攻を避けるために南下したポロンナルワへ遷都しますが、その後もタミル系王朝による侵攻は弱まらず、1017年にはシンハラ王朝の王がチョーラ朝に捕らわれ、新たな都であるポロンナルワもタミル人総督の支配域に置かれることになりました。


アヌラーダブラには仏陀がその下で悟りを開いたという菩提樹の分木が植樹されています

11年間だけ利用された都:シギリヤ



3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)


 チョーラ朝の支配下に置かれたシンハラ王朝ですが、1073年にウィジャヤバーフ王がポロンナルワを奪還し、シンハラ王朝の再建を果たします。その後、彼の孫にあたるバラークラマバーフ王はスリランカを再び統一し、ポロンナルワの整備を進めます。灌漑設備を充実させて生産力を増し、また仏教寺院を数多く建設したことで、ポロンナルワは仏教の聖域として国外にまで知られるようになります。

当時のポロンナルワ中心部に建設されたワタダーゲ(円形の仏塔)

ガル・ヴィラーハの座像

 しかし12世紀末にはシンハラ王朝は勢力を失い、13世紀初頭には南インドのカリンガ朝によってポロンナルワを奪われ、シンハラ王朝は南西のダンバデニヤへ都を移します。その後もカリンガ朝との攻防を続けますが、シンハラ王朝は徐々に勢力を失って弱体化し、南部の街へと何度も遷都を繰り返していきます。ポロンナルワは13世紀末には完全に放棄され、以降1900年代に発掘が進められるまでジャングルに埋もれることになりました。



5.       動乱期(13世紀末~1505年)


13世紀末にはセイロン島北端部のジャフナ半島にタミル人国家のジャフナ王国が成立し、14世紀半ばにはスリランカ南部にまで支配域を広めます。また、マルコポーロ、イブン・バットゥータがスリランカを訪れ記述を残したほか、明から鄭和が訪れています。

シンハラ王朝は鄭和の使節団の船を襲おうとしますが逆に王族を捕虜として捕らえられ、中国へ連行されます。明はその後王族をスリランカへ引き渡し、パラークラマ・バーフ6世を王として指定します。バラークラマ・バーフ6世は新たにコーッテ王国を建国、1450年にはジャフナ王国を支配下に置きスリランカを統一しますが、スリランカはその後30年間 明の朝貢国となりました。

また、1469年には別にウィクラマバーフがキャンディ王国を成立させており、コーッテ王国の支配下だったジャフナ王国も1479年に再び独立を果たします。後のポルトガル・オランダ・イギリスの植民地時代にはこのスリランカの3王国と侵略国との間での闘争が繰り広げられていきます。





 この後、1505年にポルトガルの商船がコロンボへ漂着し、コーッテ王国との協力体制のもと徐々にポルトガルの支配が全域に及んでいきます。ポルトガルの後もオランダ、イギリスと宗主国が変わるものの、スリランカは1948年のイギリスからの独立まで実に443年間という長期にわたって欧米諸国としての歴史を歩んでいきます。


Text by Okada

2020-05-29

スリランカ 4つの古都と世界遺産


新型コロナウイルスの影響で3月下旬よりロックダウンが続いていたスリランカですが、やっと5月23日に発表があり、5月26日より夜間(午後10時より翌午前4時)のみの外出禁止となり、またコロンボ県・ガンパハ県を除いて県をまたぐ移動も許可されるなど大幅に規制の緩和が始まってきました。


 海外からの旅行客の受け入れはまだ先になりますが、日本でも無事に海外旅行が解禁された暁には、また是非スリランカへの旅のご検討を頂ければ幸いです。また自由に旅行ができる日が戻ることを祈って、通常のブログ記事も改めて更新を続けて行きます。



スリランカ 4つの古都と世界遺産


 現在、合計8つの世界遺産が登録されているスリランカですが、そのうちの4つが当時のシンハラ王朝の都となった街でした。

スリランカの世界遺産(登録年)

文化遺産
聖地アヌラーダプラ(1982年)
古都ポロンナルワ(1982年)
古都シーギリヤ(1982年)
聖地キャンディ(1988年)
ゴールの旧市街と要塞(1988年)
ダンブッラの石窟寺院(1991年)

自然遺産
シンハラジャ森林保護区(1988年)
スリランカの中央高地 (2010年)


今回の記事ではシンハラ王朝の始まりからイギリス軍の侵略による王朝の終焉まで、都の変遷をもとにご紹介します。

1.       スリランカ最古の都:アヌラーダブラ

<世界遺産登録:1982年>
紀元前483年、シンハラ人の祖とされるヴィジャヤ王子がスリランカに上陸したとされています。その後紀元前3世紀にインドからアショカ王の王子:マヒンダが仏教を伝え、アヌラーダブラは仏教都市として栄えていきます。

その後、紀元後5世紀に一シギリヤに遷都されたものの都は再度アヌラーダブラへと戻され、11世紀まで長くシンハラ朝最初の都として機能しました。


アヌラーダブラのシンボル:ワンウェリ・サーヤ大塔

イスルムニヤ精舎本堂の涅槃仏






2.       シギリヤ

<世界遺産登録:1982年>

紀元後5世紀、シンハラ王朝のカッサバ王によって高さ195mの岩上に建造された王宮。シギリヤ・ロックとして、スリランカ随一の名所として知られますが、実際にこの都が利用されたのは僅か11年に過ぎませんでした。

カッサバ王は父王を殺害して王権を奪取しますが、平民出身の母親を持つカッサバ王は王族出身の母親を持つ弟:モッガラーナに王位を奪われることを恐れ都をアヌラーダブラからシギリヤへと移し、岩上に王宮を建設しました。

しかし11年後、インドに亡命していたモッガラーナに敗れたカッサバは自ら命を絶ち、シギリヤ王権は終焉を迎えます。モッガラーナはシギリヤを仏教僧へ寄進し、をアヌラーダブラへ戻します。その後シギリヤは14世紀頃まで修道院として存続するものの徐々に衰退し、キャンディ王国の治世の後に放棄されます。


シギリヤ・ロック

シギリヤ・レディのフレスコ画




3.       ポロンナルワ

<世界遺産登録:1982年>


1017年、スリランカは南インドのチョーラ朝の進行を受け古都アヌラーダブラを去ってポロンナルワへと遷都します。当時のシンハラ王ヴィジャヤバーフは灌漑設備の整備と仏教の布教に力を注ぎ、その意思を継いだ彼の孫:パラークラマ・バーフは巨大な貯水池:パラークラマ・サムドラを建設、また多くの寺院を建立し、ポロンナルワは仏教都市として名高い都市へ成長します。聖域として知られるようになったポロンナルワにははるばるタイやビルマからも仏教僧が訪れていました。

13世紀に入り再びチョーラ朝からのタミル人の侵入が激しくなり、シンハラ王朝は徐々に島の内陸部へと南下し、都も移り変わっていきます。その中でポロンナルワは放棄され、以降20世紀に発掘が進められるまでジャングルの中に埋もれることとなりました。


当時のポロンナルワの中心地に位置する円形の仏塔:ワタダーゲ


パラークラマ・バーフ一世の重厚なレンガ造りの宮殿跡。当時は7階建だったが現在は3階部分までが残存している。



4.       最後の都:キャンディ

<世界遺産登録:1988年>

チョーラ朝の侵攻によって南下を続けたシンハラ王朝は15世紀に入って都をキャンディに安定させます。山々に囲まれたキャンディは狭い盆地となっており、外敵の侵入を阻むためにも好都合な土地でした。その後、1815年にイギリス軍により滅ぼされるまでの300年以上にわたり最後の都として機能し、現在でも王権の象徴である仏の歯を擁する仏歯寺が置かれています。

スリランカの象徴でもあるこの仏歯を先頭に市内を回り歩くペラヘラ祭は6~7月に開催され、スリランカ最大の祭りとして盛大に祝われています。

仏歯を祀るキャンディ仏歯寺


1805年のポルトガルのコロンボ侵出から欧米列強の植民地支配をうけることとなったスリランカは、1796年よりイギリスの東インド会社の支配下となります。その後1802年にはイギリスの連邦直轄領となり、1815年のイギリス軍のキャンディ侵攻によって都は落とされ、シンハラ王朝は終焉を迎えました。

スリランカは第二次世界大戦を経て1948年にイギリス連邦内の自治領セイロンとして独立しますが、打ち捨てられていた古都は植民地時代から発見・研究が進められており、現在ではシンハラ王朝の遺産として世界的にも人気のある観光地となっています。



Text by Okada



2019-07-30

スリランカで最初に仏教が伝わった地:ミヒンタレー

アーユボワーン!

ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

そろそろペラヘラ祭りが近づいてきましたね。
弊社のスタッフはキャンディ出身者が多いので、彼らがそわそわすると
なんだか私までそわそわ、わくわくしてきます。

ペラヘラ祭りは国内外から大変多くのお客様がいらっしゃるので
鑑賞席にてご覧いただくことを強くおすすめいたします。
弊社でもチケット手配可能ですので、どうぞお気軽にお問い合わせください。

さて、本日は前回触れました日本とスリランカの仏教の違いで触れた
ミヒンタレーについてご紹介いたします。

インビテーションロックから見えるマハー・サーヤ大塔(左)とアムバスタレー大塔(手前)

ミヒンタレーはずばり、スリランカで最初に仏教が伝わった地です。

むかしむかし、紀元前247年6月の満月の日、アヌラーダプラの王、
デーワーナンピヤティッサ王がこの地にシカ狩りにやってきたそうです。

この山の神様であるデーウァは、スリランカでの仏教流布のために
ちょうどインドからこの地を訪れていたインド仏教王アショーカ王の息子、
マヒンダに会わせようと考え、シカの姿に身を変えて現れます。

デーワーナンピヤティッサ王はこのシカを追い、
マヒンダのもとへ導かれ、そこでふたりは出会います。

出会った場面を再現した模型があります。
デーワーナンピヤティッサ王(左)、マヒンダ(右)

そこで王はマヒンダと門答の末、仏教に帰依しました。

王に仕える者や地元の住民たちもこれに続き、
なんと7日間で8,500人が仏教徒となったといわれています。

その後、仏教はまたたく間にスリランカ全土に広がりました。

インビテーションロックの上に描かれたマヒンダ

ちなみに、ミヒンタレーという地名はこのマヒンダにちなんで
つけられたものであるそうですよ。

そんな聖地を訪れたらまず行くべきところ。

1. インビテーションロック
手すりはありますが非常に滑ります!ご注意を。

マヒンダがデーワーナンピヤティッサ王に会うために待っている間、
瞑想していたという岩「インビテーションロック」。

ずばり!登ってみるべし!です。
ロック頂上からの景色はとてもきれいですが、足元には十分気をつけてください。

微動だにせず、よくこのままのポジションをキープできていますよね!


2. マハー・サーヤ大塔

丘の上にある、ミヒンタレー最大の仏塔です。
なんでも、お釈迦様の髪が祀られているのだとか。

みどりに囲まれていて美しいです。
 ちなにみ、写真は丘の上ではないところで撮影されたほうが無難ですよ。。。
近すぎて何だか全くわからない状態になってしまいます、涙

そしてこの丘の側にある建物の中には、これまたびっくり!
色鮮やかな寺院?になっています。

かなり色とりどりに村人が描かれています


3. アムバスタレー大塔

真っ白い大塔

まさにここがデーワーナンピヤティッサ王とマヒンダが出会った場所。

アムバスタレーとはマンゴーの木、という意味。
大塔の中にはマヒンダと王との問答に使われたマンゴーの木が
祀られていると言われています。

祈りを捧げる地元の女性

その他にも、食堂跡や会議場跡があったり、
ナーガ・ポクナと呼ばれる沐浴場の跡地も興味深いです。

普段のツアーには含まれていないことも多い、ミヒンタレー。
アヌラーダプラを訪問する予定の方はぜひ、立ち寄ってみてください!

お問い合わせはこちらから!

Text by Reina Sakamoto

2019-07-25

日本仏教と何が違う?スリランカの仏教について

アーユボワーン!!
ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

日本では夏もいよいよ本格的になってきた頃でしょうか。
お盆まであと一息、というところですね。
来年の今頃は東京オリンピックか~と思うと胸が躍りますね!

スリランカ、オリンピックといえば1964年の東京オリンピック、
10,000メートル走で「ゼッケン67」を付けて走ったカルナナンダ選手。
1位から三周も遅れた中でも、ひたむきに走る彼の姿に、日本中が感動したそうです。
ただ1人で残るトラックを走ったカルナナンダ選手への拍手は1位の選手の拍手よりも
大きかったのだとか。。。
彼のひたむきな「オリンピック精神」、走りぬくという一途な思いは
今日でもスリランカ人の誇りとしてたたえられているそうです。

今回の東京オリンピックではどんなドラマが見られるのか、
まだ少し先ですが楽しみですね♪

前置きが長くなりました・・・が、気をとりなおして!
本日はタイトル通り、日本とスリランカの仏教の違いについて。
意外と知らない?スリランカの仏教を簡単にではありますがご案内いたします。


スリランカと日本の仏教の違い

スリランカでは仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教を信仰する人々がいます。
その人口比はヒンドゥー教徒が10%、イスラム教徒が8.5%、キリスト教徒が11.3%と
ほぼ同じくらいの比率に対して、仏教徒は70%で全人口の約3分の2を占めます。

スリランカの仏教は上座部仏教です。仏陀だけを信仰の対象としています。
かつては小乗仏教と呼ばれていましたが、大乗仏教から蔑んだ呼称であることから使われることが少なくなりました。テーラワーダ仏教とも呼ばれます。
それに対して、日本の仏教は生きとし生けるものをすべて救おうという大乗仏教です。
ここでは前者の仏教についてさらに詳しく挙げていきます。

ダンブッラ石窟寺院の壁画。座禅を組んで瞑想している仏陀の姿。

上座部仏教の特色

上座部仏教の特色は、出家をして仏陀の境地・涅槃にできるだけ近づこうとすることです。そのために、瞑想を主とする修行を行い、戒律を守ります。
自力で解脱することで、「思い通りにならないこと」=「苦」や欲から解き放たれ、
生まれ変わりの輪廻からも逃れられるとされています。

出家は7歳になれば誰でも出来ます。
10歳頃に髪の毛を剃り、十の戒を授かり、見習い僧『サーマネラ』になります。

ちなみに十の戒は次の通りです。
・不殺生(生き物を殺さない)
・不窃盗(与えられないものを取らない)
・不邪淫(淫らな行為をしない)
・不妄語(嘘をつかない)
・不飲酒(酔わせる酒を飲まない)

(ここまでの五つは一般の者も守ることとされています。)

・夜食を取らない
・花輪や香料で身を飾らない
・寝台ではなくて固い床で寝る
・歌舞音曲をしない
・金銭授受をしない


僧侶は妻帯、異性との関わりは許されていません。
制約が多い生活を送る僧侶ですが、その存在は徳高く、一般人からとても大切にされます。

バスや列車などの公共の乗り物では僧侶に席を譲ります。私も実際、何度も席が譲られる場面に遭遇しています。また、僧侶が乗っている車には道を譲ります。スリランカの仏教社会の中で僧侶はまさにエリート階級なのです。

一方、出家をしない世俗の者は、お寺や僧に寄進して徳を積みます。
そうすることによってカルマ(業、行い)が正され、来世で幸せになれると信じられています。そのため、貧しい家庭でも寺への寄進は無理をしてでも行います。

アヌラーダプラのイスルムニヤ精舎の本堂内に横たわる涅槃仏。
この鮮やかな色は、東京の浅草寺の援助で色の塗り替えが行われたそうです。

どこからいつ伝わったのか

スリランカに仏教が伝わったのは、紀元前247年。
インドのアショーカ王の息子マヒンダが伝えたと言われています。
当時のスリランカの王デーヴァーナンピヤティッサ王は、マヒンダを迎えるためにアヌラーダプラのマハーヴィハーラ(大寺)を建立しました。
以降、長い間アヌラーダプラは仏教の中心地となりました。

このデーヴァーナンピヤティッサ王とマヒンダが出会った場所が
アヌラーダプラから車で片道30分ほどにある、「ミヒンタレー」。

次回はその地に伝わる伝説とともにミヒンタレーについてご紹介させていただきます。

↓アヌラーダプラに関する過去のブログはこちらから↓

Text by Ayana Alles & Reina Sakamoto

2016-06-28

最古の聖都アヌラーダプラ(後編)

アヌラーダプラ最古の寺院、イスルムニヤ精舎

アヌラーダプラの繁栄を支えた貯水池、ティッサ・ウェワのほとりにイスルムニヤ精舎があります。
岩肌に造られているので「ロックテンプル」と呼ばれています。
御堂が岩肌を掘るように造られています。岩の上にはダーガバ(大塔)があります。
本堂には色鮮やかな涅槃仏があります。
この仏像の色の塗り替えには、東京の浅草寺が援助しました。

イスルムニヤ精舎入口。前編でご紹介したガードとムーンストーンがあります。

横たわる仏像は、入滅し涅槃に入って輪廻から解放されたことを表しています。

王子と乙女の身分を超えた恋

本堂には宝物殿が併設されています。そこに、ある男女の像があります。
この像にまつわる古代のラブストーリーがあります。
スリランカの年代記である「マハーワンサ」によると、紀元前2世紀、当時の王ドゥッタガーマニーの王子サーリヤが乙女のマーラと恋に落ちました。しかし、身分の低いマーラとの結婚は許されません。王子は周囲の反対を押し切り、愛を貫き通しました。
そして王位の座を自ら絶ったのでした。
石造の中の二人は仲良く寄り添い、永遠の愛を誓い合っているかのように見えます。石造はその名も「恋人の像 The lovers」と呼ばれています。

乙女マーラは美貌の持ち主でした。
家族になったサーリヤとマーラの石造

もう一つ「王族の像 The Royal Family」という石造があります。
こちらはサーリヤ王子とマーラの結婚後を表したものです。
中央にいるのが王のドゥッタガーマニーとその妻で、王の左側にサーリヤ王子。
マーラは身分が低かったので、王の妻の側にひっそりと彫られています。

「王族の像 The Royal Family」5~8世紀に作られたものです。

アヌラーダプラのアイコン、ルワンウェリ・サーヤ大塔

ドゥッタガーマニー王の時代、紀元前2世紀に建設が始まったルワンウェリ・サーヤという大塔があります。王が生きている間に完成にはならず、息子のサッダーティッサ王子が父の意志を継いで完成させました。
ダーガバは水疱型で純白色をしています。
そびえ立つルワンウェリ・サーヤ大塔は高さが55mです。その姿がバスや列車の窓から見えるとアヌラーダプラの到着を知らせます。

ルワンウェリ・サーヤ大塔から続く石畳はスリー・マハー菩提樹に続いています。
スリランカ仏教にふれるため、アヌラーダプラの遺跡巡りをしてみてはいかがでしょうか。

Text by Ayana Alles

2016-06-14

最古の聖都アヌラーダプラ(前編)

紀元前より栄えた王朝都市

アヌラーダプラは、今からおよそ2400年前にスリランカの都が置かれた場所です。
紀元前3世紀にインドより仏教がもたらされたことがきっかけに、多くの仏教寺院がこの地に建立されました。今なお当時の遺跡が残るアヌラーダプラの見所をご紹介致します。

アヌラーダプラのシンボル。ルワンウェリ・サーヤ大塔。


聖なるスリー・マハー菩提樹

インドの東部にある聖地ブッダガヤには、釈迦がその木陰で悟りを啓いたとされる菩提樹の木が残されています。
インドからスリランカに仏教が伝わった際、この菩提樹の分け木も一緒に伝わりました。
その菩提樹は、今ではすくすくと成長してスリー・マハー菩提樹(シンハラ語でスリー=「聖なる」マハー=「偉大なる」意味します)として巡礼者に崇拝されています。この地を聖地として強く位置付ける存在です。

豊かに生い茂るスリー・マハー菩提樹。
寺院の入口から伸びた枝が迎え入れてくれる様です。樹齢は2000年を超えています。
輪廻転生を表すムーンストーン

スリランカの遺跡にはムーンストーンが多く見られます。
ムーンストーンとは寺院や仏塔の入口に敷かれている半月型のレリーフのことです。
参拝者は裸足でムーンストーンの上を歩き、足を清めます。
スリランカ発祥の美術作品ですが、インドの仏教寺院でも見られます。
その中でもアヌーラダプラにある王妃の建物跡、クイーンズ・パビリオンのムーンストーンは最も美しい事で有名です。
ムーンストーンには輪廻転生が4種類の動物で表現されています。
4種類の動物とは象、馬、ライオン、牛。それぞれ生病老死を表しています。
内側には花をくわえたアヒルがいます。汚い池でも清らかな姿で生きていることから「純潔」を表しています。ここで人は命を持つことの意味を知ります。
そして最後に天国を意味している中心の蓮の花にたどり着くことが表されています。


シンハラ語ではサンダカダパーナ。形が半月型のため英語のムーンストーンと呼ばれています。

スリランカで最も美しいガードストーン

寺院の入口に門番のように立っているガードストーン。
悪魔の侵入を防ぐ役割をしていました。
両サイドに置かれていて、日本の寺院の山門のある阿吽像の様です。
ガードストーンはムーンストーンと同様にスリランカの遺跡では多く見られます。
かつて石の宮殿があったとされている跡地、ラトゥナ・プラサーダの入口にあるガードストーンはスリランカ随一の傑作品と言われています。
王の姿が立体的に彫られており、右手に吉祥を意味する壺、左手には繁栄を意味する花を持っています。背後はコブラに覆われています。

足元にいるのは富の神クベラの使い。

かつての僧侶たちの沐浴場 

修行していた僧侶たちの沐浴場となっていたのがクッタム・ポクナというところです。
今は緑色に濁った水が張られたままですが、当時は近くの池からパイプで水を引いていたそうです。また、沐浴後は水田にその水を流していたそうです。

かなりの広さから、多くの僧侶が居た事がうかがえます。

 後編ではアヌラーダプラに伝わる王子と娘の許されないラブストーリーにまつわる遺跡をご紹介致します。

Text by Ayana Alles