2020-07-10

スリランカの歴史②スリランカ通史概説 後編



 スリランカの歴史紹介の第2回。今回は通史概説後編と題して、植民地時代から独立後の内戦期、そして現代に至るまでの道のりを辿っていきます。

(前回の記事の範囲)
1.       スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161)
2.       アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073)
3.       ポロンナルワ時代 (1073~13世紀末)
4.       動乱期(13世紀末~1505)

今回紹介する範囲
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)



5.       ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658)


当時、ポルトガルは東南アジアの香辛料貿易の開拓を進めており、南インドのケララ地方、またスリランカで算出するシナモンを入手することも目標の一つでした。そんな中1505年にポルトガルの商船がコロンボへ漂着します。

 ポルトガルの船の大砲や銃などの武器を警戒したコーッテ王国はこれを警戒してポルトガルと和平条約を結びます。そして10年後の1515年、ポルトガルは軍艦を率いて再びコロンボへ上陸し、勝手に要塞を建設し始めます。コーッテ王国はこれに異を唱えて軍を率いて抗議しますが、ポルトガルの兵力にかなわず敗退し、実質的に今後のポルトガル商船の自由な出入りを認めることになります。

 コーッテ王国がポルトガルと友好関係を築いたのには、当時王国内で起こっていた内紛を治めるための軍事力を得るためという目的もありました。しかし結果的にはこれがポルトガルへの依存を高め、コーッテ王国の求心力を失うことに繋がってしまいます。1521年にはコーッテ王国の国王が暗殺され、王国はコーッテ/シータワカ/ライガマの3つに分裂しました。

分裂後のコーッテ王国では国王がポルトガルによって指名されたり、その国王がカトリックへ改宗させられたりと徐々にポルトガルの干渉が激しくなっていきます。1571年にはゴールへ要塞を築いて本拠地とし、また1580年にはコーッテ国王に対して、「自分が亡くなった後はランカ島をポルトガル国王へ譲る」と宣言させています。

1859年にポルトガルが砦を築いたゴールの街(写真:ゴール灯台)



 コーッテ王国のほかに対しても、カトリックへの改宗を拒否したタミル人国家のジャフナ王国へ進軍したり、キャンディ王国へ進軍したりとスリランカ全土の支配へ向けて版図を広げていきます。


 1597年、コーッテ王国のダルマパーラ王が死去し、シンハラ王朝としての王権はキャンディ王国に引き継がれます。ちょうどこのころに新たにオランダがスリランカへ進出しており、キャンディ王国は17世紀前半からはオランダと協力してポルトガルの侵略に対抗します。

 ポルトガルはキャンディ王国からトリンコマリーやバッティカロアなどの地方を略奪しますが、都のキャンディではキャンディ王国に敗退し、またその後オランダにトリンコマリーとバッティカロアを奪われ、キャンディ王国に返還させられています。オランダが相手となると分が悪いことを悟ったポルトガルは1645年にオランダとの和平条約を締結。一時安寧の時代が流れますが、1656年にポルトガルが支配していたコロンボをオランダが奪取し、拠点を失ったポルトガルはスリランカから追放されます。
 オランダ植民地時代の始まりです。


6.       オランダ植民地時代 (1658年〜1796)


キャンディ王国と協力体制をとっていたオランダですが、ポルトガルという強敵がいなくなった後は着実に侵略者としてのスリランカ支配を進めていきます。キャンディ王国からトリンコマリーとバッティカロアを奪取した他、ジャフナ王国も支配下に収めました。

その後一旦キャンディ王国との休戦協定を結ぶものの、1766年の和平条約はキャンディ以外の多くの地域をオランダに譲るという屈辱的なものであり、実質的なオランダの支配を意味するものでした。

キャンディの仏歯寺には王権の象徴である仏歯が祀られています
ゴールのオランダ教会。現代に残る世界遺産フォート地区は主にオランダ占領期に形成された


オランダは当時、世界初の株式会社であるオランダ東インド会社を設立し、南・東南アジアの香辛料貿易を独占することで莫大な利益を得ていました。決定的な出来事は1623年のアンボイナ事件です。これはクローブなどの産地であるインドネシアのアンボイナ島でオランダがイギリス商館を襲い、イギリス勢力を一掃してオランダ支配を確立した事件でした。

イギリスはこれを理由として東南アジア進出を断念しインド進出へ路線を変えますが、これはイギリスの反オランダ感情を大いに煽る事件でもありました。イギリスはこの後、1795年よりスリランカにて再びオランダと抗争を始め、重要地域を次々と攻略して1796年にはオランダ勢力をスリランカより一掃します。



7.       イギリス植民地時代(1796年~1948年)


1802年、オランダは正式にスリランカをイギリスへ割譲。イギリスによる植民地支配が本格的にスタートします。1815年にはキャンディ王国内での内乱に乗じてキャンディに進軍し、2400年以上にわたって続いたシンハラ王朝を断絶させ、スリランカの完全統治を果たしました。

 その後、植民地としての行政・司法・議会などの整備を進めると同時にコーヒーのプランテーションを本格化させ、南インドから大量のタミル人を労働力として移住させました(これが後の民族問題へも発展します)1870年には病害で壊滅したコーヒーに代わり当時インドで成功しつつあった紅茶のプランテーションをスリランカで開始しています。

スリランカを代表する品目となったセイロンティーの収穫風景(ヌワラエリヤ)


 その後も植民地支配の土台として行政整備を進めますが、「少数派のタミル人(ヒンドゥー教徒)を行政幹部として重用することで多数派のシンハラ人(仏教徒)との間に軋轢を生じさせ民族対立を煽り、スリランカとしての英国からの独立運動の発展を避ける」という分割統治は後の凄惨な内戦の原因となりました。


しかし第一次・第二次世界大戦中にシンハラ派・タミル派ともに独立を望む民族運動が徐々に発展していきます。第二次世界大戦後の1948年、ついにスリランカはイギリス連邦内の自治領として独立し152年に及ぶイギリス支配を脱しますが、イギリスという圧倒的支配が除かれた結果、興隆したそれぞれの民族意識は内戦として噴出することになってしまいます。


8.       スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)


スリランカ内戦についてはまた改めて記事として紹介しますが、ここでは概要のみ確認します。

スリランカ国内にはシンハラ人(74:主に仏教徒)・タミル人(18%:主にヒンドゥー教徒)、スリランカ・ムーア人など多くの民族が暮らしますが、イギリスの分割統治の結果としてシンハラ人は貧しく、タミル人は高い教育を受けて所得が高いという状況がありました。

状況が大きく変わったのは1956年のバンダラナイケ政権からです。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」を掲げて選挙で圧勝し、シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策など急進的な政治を進め、タミル人の反発を招きます。この年から各地でシンハラ人とタミル人の間の衝突が頻発していきました。

その後もシンハラ人優遇政策は続き、少数派であるタミル人への圧迫が激しくなります。タミル人側では後の「タミル・イスラームの虎(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Ealam)」の前身となる過激派組織が結成され、1983年以降は政府軍との全面的な戦争状態へ発展します。また、タミル人難民のカナダ等北米、欧州、アジア各国への避難も進んでいきます。

画像出典:外務省:スリランカ内戦の終結~シンハラ人とタミル人の和解に向けて


 状況が再び変わるのは2002年、中東和平などでも活躍したノルウェーの駐安芸で政府側とLTTEの間に一時停戦合意が成立します。その後も6回の和平交渉が行われますが、2005年のラージャパクサ大統領就任後に再び状況が悪化、2008年には停戦合意が正式に失効します。

 タミル人側は国際社会への呼びかけと協力要請を続けますが、スリランカ政府軍はその間も徐々にLTTEの拠点を攻略して行きます。そして2009519日、LTTEのプラバーカラン議長の死亡を確認したことで内戦の終結が宣言されました。平和的解決ではなく、スリランカ政府軍の勝利によって解決の形をとった内戦では7万人以上の死者が記録されています。



9.       内戦終結後~現代 (2009年~)


ラージャパクサ大統領は、すべての国民に受け入れ可能な政治解決に取り組んでいくことを表明しています。現在も約28万人のタミル人難民がスリランカ国内に存在し、不衛生な難民キャンプでの生活を強いられています。また内戦で破壊されたインフラの復旧や地雷の撤去など多くの課題が残されており、両民族の軋轢も解消の途上にあります。

 しかし内戦後、スリランカは平和の上の経済成長を遂げていきます。コロンボには海外資本の企業も参入し、自由に訪問ができることになったことで観光業も発展、多くの観光客が訪れる魅力的な観光国となっています。


 昨年2019年にはイスラム過激派による同時多発テロが発生し、邦人1名を含む250人以上が亡くなるという痛ましい事件がありました。その後厳重な警備の下で観光客数は戻りつつありましたが、現在は新型コロナウイルスの影響で再び観光業は大きな打撃を受けています。1日も早く、スリランカを含め国際的な状況が回復することを願っています。


Text by Okada