2020-06-26

スリランカの歴史① スリランカ通史概説 前編



スリランカの歴史は大変深く、記録に残されているものだけでも2500年以上の歴史を持っています。紀元前5世紀のシンハラ人の王朝の成立以降、13世紀末までは南インドからのタミル人国家との攻防を繰り返しますが、15世紀以降はポルトガル・オランダ、そしてその後第二次世界大戦終結後の独立まではイギリスの植民地としての歴史を歩み、独立後も長い内戦が続き、現在のスリランカへ至っています。

今回からは欧米の植民地支配、独立後の内戦とその2500年の歴史を9つに分けて、スリランカの歴史を追っていきます。各節は非常に簡単な概略ですが、今回はポルトガルの植民地支配の始まりまでの歴史をご紹介します。


1.       スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161)
2.       アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073)
3.       ポロンナルワ時代 (1073~13世紀末)
4.       動乱期(13世紀末~1505)

(以下次回更新)
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)


1.スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161)


 スリランカの歴史の始まりは紀元前483年と言われています。これは北インドのアーリア系の民族であったウィジャヤ王がスリランカへ渡りシンハラ人の祖となったというものです。この記述自体は紀元後5世紀に入ってから編まれた歴史書「マハーワンサ」に記されたものであり、事実としての信憑性は否定的に取られていますが、伝説としてスリランカ内外に広く知られています。

ウィジャヤ王の妻であるスリランカのクヴェニ女王に関係すると言われる遺跡(ウィルパットゥ国立公園内)


 紀元前377年には首都アヌラーダブラが建設され、その後紀元前250年にインドのマウリヤ朝の王:アショーカの使者であるマヒンダが仏教を伝えたとされています。シンハラ王朝は仏教に帰依して多数の仏教施設を建設し、仏教は国家宗教として発展していきます。

 また、紀元前3世紀末から南インドのタミル人がスリランカに侵入を始め、紀元前210年にはタミル人がアヌラーダブラを征服します。これ以降、スリランカでは常にシンハラ人とタミル人の王朝の攻防が続いていきます。



2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073)


 紀元前161年、シンハラ王朝の王ドゥッタガマーニーがタミル人をアヌラーダブラから追放し、初めてスリランカ全域の統一支配を成し遂げます。その後もシンハラ王朝は基本的にアヌラーダブラを都としますが、何度もタミル人による征服を受け、またその度にタミル人を追放して都を奪還しています。

 この間に11年間だけ都として使われたのがスリランカの世界遺産として有名なシギリヤの都です。シギリヤの建設者であるカッサバ王は、タミル人からアヌラーダブラを奪還した父王を殺してシギリヤに新たな都を建設しますが、弟のモッガラーナによって王権を奪われ、その後また都はアヌラーダブラへ戻されています。

 アヌラーダブラは仏教の中心センターとして、また灌漑に支えられた穀倉地帯として栄えますが、継続してタミル系王朝の侵攻を受けていました。紀元前769年には侵攻を避けるために南下したポロンナルワへ遷都しますが、その後もタミル系王朝による侵攻は弱まらず、1017年にはシンハラ王朝の王がチョーラ朝に捕らわれ、新たな都であるポロンナルワもタミル人総督の支配域に置かれることになりました。


アヌラーダブラには仏陀がその下で悟りを開いたという菩提樹の分木が植樹されています

11年間だけ利用された都:シギリヤ



3.ポロンナルワ時代 (1073~13世紀末)


 チョーラ朝の支配下に置かれたシンハラ王朝ですが、1073年にウィジャヤバーフ王がポロンナルワを奪還し、シンハラ王朝の再建を果たします。その後、彼の孫にあたるバラークラマバーフ王はスリランカを再び統一し、ポロンナルワの整備を進めます。灌漑設備を充実させて生産力を増し、また仏教寺院を数多く建設したことで、ポロンナルワは仏教の聖域として国外にまで知られるようになります。

当時のポロンナルワ中心部に建設されたワタダーゲ(円形の仏塔)

ガル・ヴィラーハの座像

 しかし12世紀末にはシンハラ王朝は勢力を失い、13世紀初頭には南インドのカリンガ朝によってポロンナルワを奪われ、シンハラ王朝は南西のダンバデニヤへ都を移します。その後もカリンガ朝との攻防を続けますが、シンハラ王朝は徐々に勢力を失って弱体化し、南部の街へと何度も遷都を繰り返していきます。ポロンナルワは13世紀末には完全に放棄され、以降1900年代に発掘が進められるまでジャングルに埋もれることになりました。



5.       動乱期(13世紀末~1505)


13世紀末にはセイロン島北端部のジャフナ半島にタミル人国家のジャフナ王国が成立し、14世紀半ばにはスリランカ南部にまで支配域を広めます。また、マルコポーロ、イブン・バットゥータがスリランカを訪れ記述を残したほか、明から鄭和が訪れています。

シンハラ王朝は鄭和の使節団の船を襲おうとしますが逆に王族を捕虜として捕らえられ、中国へ連行されます。明はその後王族をスリランカへ引き渡し、パラークラマ・バーフ6世を王として指定します。バラークラマ・バーフ6世は新たにコーッテ王国を建国、1450年にはジャフナ王国を支配下に置きスリランカを統一しますが、スリランカはその後30年間 明の朝貢国となりました。

また、1469年には別にウィクラマバーフがキャンディ王国を成立させており、コーッテ王国の支配下だったジャフナ王国も1479年に再び独立を果たします。後のポルトガル・オランダ・イギリスの植民地時代にはこのスリランカの3王国と侵略国との間での闘争が繰り広げられていきます。





 この後、1505年にポルトガルの商船がコロンボへ漂着し、コーッテ王国との協力体制のもと徐々にポルトガルの支配が全域に及んでいきます。ポルトガルの後もオランダ、イギリスと宗主国が変わるものの、スリランカは1948年のイギリスからの独立まで実に443年間という長期にわたって欧米諸国としての歴史を歩んでいきます。


Text by Okada