2020-08-07

スリランカの歴史⑤ ポロンナルワ時代

 スリランカの歴史を紹介する第5回。今回はポロンナルワ時代をご紹介します。


ポロンナルワはスリランカ中央部に位置し、従来の都アヌラーダプラから南東に約80㎞離れた町です。チョーラ朝によってアヌラーダプラが占拠されたため、よりチョーラ朝の影響の及びにくい南方の代替の都として発展していきます。


1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)








■ヴィジャヤバーフ1世の治世


11世紀初頭は南インドのタミル人国家チョーラ朝がラージャラージャ1世、そしてその後継であるラージェンドラ1世の治世で最盛期を迎え、スリランカもその支配のもとに組み込まれます。しかし1055年、スリランカでシンハラ人の王ヴィジャヤバーフ1世はチョーラ朝に対しての抵抗運動を開始し、1070年にチョーラ朝の内政抗争の隙をついて蜂起、1073年にはポロンナルワを奪還します。この際には同じく南インドのタミル人国家ですが、チョーラ朝に敵対していたパンディーヤ朝、またスリランカと同じくチョーラ朝の支配下にあったミャンマーのビルマ人王朝:パガン朝などからの支援もあったようです。


ヴィジャヤバーフ1世は南部のルフナ王国の出身です。スリランカはこれまで大きく3つの地域勢力に分かれており、北部のラジャ王国、南部のルフナ王国、コロンボ周辺のダッキナデサ王国がそれぞれ存在していました。アヌラーダプラやポロンナルワを擁し最大の勢力だったのが島の中央部から北部沿岸までを支配域としたラジャ王国で、これまでのシンハラ人王朝でも他の2勢力に対して支配的な立場にあった勢力です。ヴィジャヤバーフ1世はまず南部の自国ルフナ王国からチョーラ朝の勢力を追放し、徐々に北上してシンハラ人の支配域を奪還していきました。


ヴィジャヤバーフ1世はポロンナルワ王国の国王として即位し、都のポロンナルワは王の名から「ヴィジャヤラジャプラ」と改称されました。その後、ヴィジャヤバーフ1世は国の再興を目指して尽力します。およそ1世紀に渡って従来の都アヌラーダプラを占拠されていた間に、スリランカからは仏教僧が減り、仏教の信仰自体が衰退していました。ヴィジャヤバーフ1世はミャンマーのパガン朝から僧を招き、仏教国としての再建を目指します。また、聖地であるスリ・パダ(スリランカ最高峰のアダムス・ピーク)への巡礼の道を整備し、巡礼路の街の整備も進めて行きます。さらに、新たな貯水池を建設し、灌漑システムを再構築するなど大規模な公共事業を行い、首都の整備も進めて行きます。


ヴィジャヤバーフ1世の建設したアタダーゲ。王権の象徴である仏歯を祀った寺院跡です。



ヴィジャヤバーフ1世は1110年に亡くなるまでの55年間、ポロンナルワの王として君臨し、老齢になるまでの長い支配にちなんで「マハー・ヴィジャヤバーフ」(偉大なるヴィジャヤバーフ)と呼ばれます。現在のスリランカ陸軍の歩兵隊はこの偉大な王の名をとって「Vijayabahu Infantry Regiment」(ヴィジャヤバーフ歩兵連隊)と名付けられています。


この時代はラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力はポロンナルワ王国の下に統治されていましたが、ヴィジャヤバーフ1世の死後はまた王権を巡って3勢力間の抗争が続きます。



■パラークラマバーフ1世の治世

ヴィクラマバーフ1世の死後は彼の兄弟や息子たちの治世が続き、またラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力が王権を巡って争う状況が続きました。その中で、3勢力の権力を掌握しスリランカ全島を支配下に置いたのがヴィジャヤバーフ1世の孫、パラークラマバーフ1世です。


パラークラマバーフ1世はコロンボ周辺の勢力、ダッキナデサの王家の出身です。叔父から王位を継いだパラークラマバーフ1世はガジャ国の王ガジャバーフを破ってポロンナルワを獲得し、またガジャ国と同盟を組んでいたルフナ国勢力による攻撃を退け、1153年にスリランカ島の全権を掌握するに至ります。ポロンナルワを都としたパラークラマバーフ1世は、ヴィジャヤバーフ1世と同様に仏教寺院や灌漑設備の建設を進め、33年間の治世の間にポロンナルワは大きく発展していきます。


パラークラマバーフ1世の建設した貯水池はパラクラマサムドラとして知られ、従来からあった貯水池を拡充し、さらに新たな貯水池を追加したものです。面積22㎢に及ぶ巨大な貯水池は現在でも貴重な水源として利用されています。また、ポロンナルワ宮殿ガル・ヴィハーラ等、ポロンナルワに残る遺跡の多くもパラークラマバーフ1世の治世で建設されたものです。彼自身の石像と呼ばれるレリーフも残されています。


パラークラマバーフ1世と伝えられる石像(モデルについては他諸説あり)



ポロンナルワ王宮跡

ガル・ヴィハーラの仏像



また、パラークラマバーフ1世は周辺諸国に対しても影響力を増していきます。友好関係にあったミャンマーのパガン朝でシンハラ人の使者を捕らえたことに抗議して軍を派遣し、また南インドのタミル人に対しても牽制措置をとっています。アダムス・ブリッジのあるポーク海峡を隔ててスリランカと接するラメスワラムにシンハラ人の街を建設し、チョーラ朝パンディヤ朝といった南インドの国家に対してある程度の支配力を維持していました。


また、仏教を通しての周辺諸国との交流も密接で、ポロンナルワには度々タイ、ミャンマー、カンボジア等から仏教僧が訪れていたこともわかっています。トゥマハル・プラサーダはタイの上座部仏教の寺院に類似した仏塔で、タイからの僧、建築士によって建てられたものと考えらえています。


トゥマハル・プラサーダ


ポロンナルワ王国の下でのスリランカの統一、またその統治下での文化の興隆から名君として知られるパラークラマバーフ1世ですが、度重なる遠征や公共事業のために大量の資金を費やし、また国民にも重い税を課しており、国家としての財政状況は芳しくなかったようです。後の統治者であるニッサンカ・マッラの治世では、最も民衆の支持を受けた政策はあまりにも高すぎる税率の引き下げだったそうです。


しかしパラークラマバーフ1世の人気は絶大なもので、次の400年の間にはパラークラマバーフ1世の名を自身の名に採用する君主が7人以上存在していたと伝えられています。また、現在のスリランカ海軍の船にもパラークラマバーフ1世にちなんで名づけられた2隻の軍船が存在しています。



■ニッサンカ・マッラの治世

パラークラマバーフ1世の死後は従弟のヴィジャヤバーフ2世が王権を引き継ぎます。そしてこのヴィジャヤバーフ2世が副王として選んだのがニッサンカ・マッラでした。


ニッサンカ・マッラはスリランカではなく、インドのカリンガ国の出身です。カリンガ国はシンハラ人の祖:ヴィジャヤ王のルーツとなる地であり、ニッサンカ・マッラ自身もヴィジャヤの血を継ぐ者として王権を持つと考えられました。副王としてスリランカに招かれたニッサンカ・マッラはヴィジャヤバーフ2世の王権を継ぐはずでしたが、ヴィジャヤバーフ2世はニッサンカ・マッラと同じくカリンガ国出身のマヒンダ6世によって殺害され、マヒンダ6世が王権を強奪します。


しかしその僅か6日後にニッサンカ・マッラはマヒンダ6世を粛正、ポロンナルワの王として即位します。ニッサンカ・マッラはパラークラマバーフ1世の意思を継ぎ多くの仏教寺院を建設、また貯水池など灌漑設備の拡充に努めました。ポロンナルワに残るランコトゥ・ヴィハーラニッサンカ・ラタ・マンダパヤハタダーゲなどの建築は彼の治世で建設されたものです。また、ミャンマーのパガン朝やカンボジアなどの遠隔地とも良好な関係を築き、南インドに対しても牽制を続けるなど対外政策にも優れた政策を行っていました。カリンガ国出身の王という異色の出自でしたが、人徳のある王として称えられたと伝えられています。

ポロンナルワ最大の仏塔:ランコトゥ・ヴィハーラ


ニッサンカ・マッラが僧の読経を聞いていたというラタ・マンダパヤ



王宮内のニッサンカ・マッラの沐浴場








■ポロンナルワ王国 黄金時代の終焉


民への重税の緩和もあり人気の高かったニッサンカ・マッラですが、パラークラマバーフ1世と同じく多くの公共事業を行ったため、次第に国の資金は枯渇していきました。黄金時代とも呼べるポロンナルワ王国はニッサンカ・マッラの死後急激に弱体化し、再び南インドのタミル人国家による侵入を受けていきます。


1200年にはスリランカ島北端のジャフナ半島にタミル人の入植がはじまり、後の1300年にはタミル人国家ジャフナ王国が建国されます。また、カリンガ国出身のタミル人:マーガ王がジャフナ半島からスリランカへ侵攻し、1215年にはポロンナルワを占領しています。シンハラ人は王権の象徴である仏歯をポロンナルワから持ち出し、以降はスリランカの南部へと遷都を繰り返していくこととなりました。


マーガ王はその後シンハラ人のヴィジャヤバーフ3世の抵抗運動によって廃され、1287年にはシンハラ人によってポロンナルワが奪還されました。しかし1293年にヴィジャヤバーフ3世の治世が終わった後にポロンナルワは放棄され、1900年代のイギリス統治下で発掘が始まるまでジャングルに埋もれることになります。


ポロンナルワ王国の終焉の後、スリランカでは小国シンハラ人とタミル人の各国家が併存する動乱期に入っていきます。



Text by Okada