2020-07-31

スリランカの歴史④ アヌラーダプラ時代

スリランカの歴史を辿る第3回。今回は、アヌラーダブラに都を移した後、スリランカ全土に対して支配力を持つようになった時代として、アヌラーダプラ時代についてご紹介します。

アヌラーダプラは古くからの都、そして仏教聖地として1982年に世界遺産に登録されており、スリランカの主要な観光地となっています。また周辺の観光地へのアクセスも良いため、北部スリランカの観光の拠点としても利用される街です。

1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.動乱期(13世紀末~1505年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)



■ドゥッタガマニ王によるアヌラーダプラの奪回


紀元前437年にパンドゥカバハヤによって都が開かれ繁栄を誇ったアヌラーダブラですが、紀元前3世紀から南インドのタミル人国家による侵入を受け始め、紀元前3世紀末にはアヌラーダプラを占領されます。その後44年間にわたってアヌラーダプラを占領したチョーラ朝のエララという人物は、後に彼を打倒するシンハラの王:ドゥッタガマニの宿敵としてマハーワンサ(古代スリランカの歴史と伝説を記した物語)にも登場しています。

紀元前161年、シンハラ人の王ドゥッタガマニはエララを退けてアヌラーダプラを奪還します。ドゥッタガマニは英雄的な存在として語られ、再建を遂げたアヌラーダプラ王国はスリランカ史上初めてスリランカ全土に対して支配的な影響力を持つようになりました。

ドゥッタガマニは仏教の再興にも尽力し、アヌラーダプラにも多くの仏教寺院を建設します。中でも最大規模のものがルワンウェリサーヤ仏塔で、これには仏陀の托鉢が埋葬されていると言われています。ドゥッタガマニ自身がこの建設を監督し、完成の際にはインドからも様々な地域の代表団が訪問したと伝えられています。高さ90m、直径91mの巨大な仏塔は現在でもアヌラーダプラのシンボルとなっています。

ルワンウェリサーヤ仏塔


しかし英雄ドゥッタガマニの跡を継いだワラガムバーフ王は再びタミル人国家の侵略を受けて王位を剥奪され、以降再びタミル人国家による支配が続きます。シンハラ人王朝が都を奪還するのは紀元後3世紀に入ったころで、これを指揮したマハーセーナ王は数多くの灌漑用貯水池や運河を建設したことでも知られています。しかし王国は一時安定したものの、これ以降も継続的にタミル人国家との攻防が続き、何度もアヌラーダプラの占領と奪回を繰り返していくことになります。



■王都シギリヤとカッサパ王


タミル人による占領期を除いて基本的にはアヌラーダプラに都がおかれましたが、途中で都が移されたのがスリランカの観光地の中でも随一の人気を誇るシギリヤです。遷都を断行したカッサパ王の物語はよく知られています。

紀元後5世紀、タミル人に占領されていたアヌラーダブラを奪還したのがカッサパ王の父であるダートゥセーナでした。ダートゥセーナにはカッサパとその弟モッガラーナという2人の王位継承権を持つ息子がいましたが、2人は母親が違い、カッサパの母は平民の出身、モッガラーナの母は王族の出身でした。カッサパはこれによって自分に王位が継承されないことを憂い、477年にクーデターを起こしてダートゥセーナを監禁、強権的に王位を継承します。それに続き、王位を奪われることを恐れて弟のモッガラーナの殺害をもくろみますが、モッガラーナは危機を察知して南インドへ亡命していました。

古くからの都アヌラーダブラでは先王ダートゥセーナ派の力が強かったため、攻撃を恐れたカッサパは新たな都としてシギリヤを選び、シギリヤロックの岩上に7年の歳月を費やして王宮を建設します。その後、シギリヤの都はカッサパの治世の終わる495年まで存続しました。


都が置かれたシギリヤ・ロック

岩上からの風景と王宮跡


カッサパの弟モッガラーナは南インドから王権奪取のためにシギリヤに侵攻。カッサパはこの際に自害し、王権はモッガラーナへ移り、モッガラーナによってシギリヤの都は廃され、再びアヌラーダプラへと都が戻りました。シギリヤは仏教僧へ寄進されることになり、その後13~14世紀までは修道院として機能していましたが、以降はキャンディ王国による利用の記録が残るのみです。長く忘れ去られていたシギリヤの都は、その後1887年にイギリス人によって岩壁に描かれたシギリヤ・レディが発見されたことを契機に発見され、現在ではスリランカを代表する名跡として知られるようになりました。

シギリヤ発見の契機となったフレスコ画 シギリヤ・レディ



■ポロンナルワへの遷都


491年にモッガラーナによって再び都がおかれたアヌラーダプラは繁栄を迎えますが、やはり継続して南インドのタミル系諸国、パーンディヤ朝チョーラ朝からの侵攻を受けていました。度重なる侵攻を受け、769年には南東へ約80㎞離れたポロンナルワへと遷都します。チョーラ朝はその後993年にはアヌラーダプラを占領して支配下に置き、さらに1017年にはチョーラ朝のラージャラージャ1世によってシンハラ人のマヒンダ王が捕らえられ、その代わりとしてタミル人の総督を置くことでポロンナルワとスリランカ全域を支配下に収めました。

チョーラ朝のラージャラージャ1世は南インドで抗争を続けていたパーンディヤ朝を破り、また同じく南インドのケララ、またスリランカ、モルディブにまで支配力を広げ、チョーラ朝最盛期の礎を作った英傑と称えられる人物であり、その名も「王の中の王」を意味します。ラージャラージャ1世がチョーラ朝の都:タンジャブールに7年間かけて建設したブリハディーシュワラ寺院はドラヴィダ建築の最高峰とも呼ばれ、当時のチョーラ朝の繁栄を見ることができます。

南インド、タンジャブールのブリハディーシュワラ寺院


彼の息子として王位を継いだラージェンドラ1世の時代にチョーラ朝は最盛期を迎え、11世紀初頭にはさらなる領土拡大のために北インドのガンジス川流域やスマトラ島まで遠征をするに至っています。


しかし、シンハラ人王朝では1055年にヴィジャヤバーフ王がチョーラ朝支配に対しての蜂起運動を開始。1070年にチョーラ朝の王位が空位になった際の内政不安に乗じて反乱を起こし、チョーラ朝勢力の大半をスリランカから追放します。勢力を盛り返したシンハラ人側は1073年にポロンナルワを奪還し、ヴィジャヤバーフ王はチョーラ朝占領の間に廃れていた仏教の再興のために尽力します。

この後、ヴィジャヤバーフ王の孫:バラークラマバーフ王の時代にスリランカは再びシンハラ人王権の下に統一され、ポロンナルワは仏教聖地として国際的にも存在感のある都へと成長していくことになります。


Text by Okada