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2020-08-14

スリランカの歴史⑥動乱期

スリランカの歴史をご紹介する第6回、今回は13世紀末から15世紀末にかけての動乱の時代を取り上げます。


この時期はタミル人によるジャフナ王国が成立し、シンハラ人王朝と衝突を繰り広げました。シンハラ人王朝はジャフナ王国との攻防の中で島の中央部~西部にかけて何度も遷都を繰り返し、また内部抗争や分裂も激しくなります。さらに、マルコ・ポーロ、イブン・バットゥータの二人の探検家がスリランカを訪問し、中国の明から鄭和が訪れてシンハラの王を捕らえるなど、国際社会の影響を受け始めます。後に訪れる、欧米諸国の植民地時代への過渡期としても捉えられる時代です。



1.  スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)

2.  アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.  ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.  動乱期(13世紀末~1505年)

5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9. 内戦終結後~現代 (2009年~)



■ジャフナ王国の建国 ポロンナルワ時代から動乱期へ


前回の記事で紹介したヴィジャヤバーフ1世、パラークラマバーフ1世、ニッサンカ・マッラの3人の名君により黄金時代が築かれたポロンナルワですが、度重なる対外戦闘や公共事業により王国の財政は悪化し、次第にその力を失っていきます。


その中で、南インドからスリランカの北端部であるジャフナ半島へタミル人の入植が始まります。この動きを率いたのはカリンガ国出身と言われるカリンガ・マーガでした。カリンガ・マーガはジャフナ半島からスリランカへの侵攻を始め、1215年にはポロンナルワを占領します。その後はスリランカ北東部を支配下に置き、1258年からは南インドのパーンディヤ朝に従属しますが、1323年にはパーンディヤ朝の政治不安に乗じて独立を果たしました。以降はシンハラ人王朝と衝突を繰り返しますが、14世紀初頭から中頃にかけてはスリランカでの覇権を握るほどに発展していきます。



■シンハラ人王朝の度重なる遷都と興亡


ポロンナルワの王: ヴィジャヤバーフ3世はカリンガ・マーガの侵入を受けて約110㎞南西のダンバデニヤへ遷都します(ダンバデニヤ王国の成立)。さらに13世紀後半にはブヴァイナカバーフ1世によりダンデバニヤから約50㎞北東のヤパフワへ遷都。ここではシギリヤのように周囲の低地から突き出すように盛り上がった巨大な花崗岩の上に、要塞のように宮殿が置かれました。王権の象徴である仏歯もここに移されますが、ブヴァイナカバーフ1世の死後はタミル人国家の侵略を受け、仏歯も奪われています。


しかしその後、後継のパラークラマバーフ3世は1288年にポロンナルワと共に仏歯を奪還し、1293年までポロンナルワに都をおきます。ジャフナ王国の占領によって荒廃してしまった仏教寺院の整備に尽力しますが、この後も遷都は続き、実質的にはポロンナルワに都が置かれたのはこのパラークラマバーフ3世の時代が最後となりました。



パラクラーマバーフ3世によって建設されたランカティラカ (ポロンナルワ)



パラークラマバーフ6世の命で描かれたティワンカ・ピリマゲ寺院の壁画 (ポロンナルワ)



パラークラマバーフ3世の死後、3代にわたってクルネガラを都として統治が続きます。その後一度ダンデバニヤ、ヤパフワを経由し、1353年にはパラークラマバーフ5世によってさらに南下したガンポラに都が移され(ガンポラ王国の樹立)、後継のヴィクラマバーフ3世によって仏歯が奉納されました。



■アラケスワラ(アラガッコナラ)家の台頭


ガンポラに都が置かれたヴィクラマバーフ3世(1359-1374)の治世の時代に台頭し、後のスリランカ支配に関わることになったのがアラケスワラ家(又はアラガッコナラ家)です。この一族の祖となるニッサンカ・アラガッコナラは南インドの現タミル・ナードゥ州のカンチープラム出身の商人であり、13世紀初頭からスリランカに定着したと考えられています。


彼の孫:アラケスワラは、ヴィクラマバーフ3世に仕える大臣としてジャフナ王国に対抗し、現在のスリランカの首都:スリジャヤワルダナプラコッテの地に砦を築きます。この土地は2本の川が交わり沼地に囲まれた防衛に適した地で、「ジャヤワルダナ(勝利の地)」と呼ばれていましたが、この後に「コッテ(砦)」と呼ばれるようになりました。

スリランカは1985年から首都をコロンボからスリジャヤワルダナプラコッテへ変更していますが、その計画を主導したのが当時のジャヤワルダナ大統領でした。大統領はコッテの旧称と自分の名前が同じ「ジャヤワルダナ」であることにちなみ、新たな首都の名を「スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ(聖なる・勝利をもたらす・街・コッテ)」としたとされています。

ジャヤワルダナ大統領 画像出典:J.R. Jayewardene Centre



アラケスワラ
の死後は一族の中で権力を巡った争いが生じますが、アラケスワラ家は王族とも婚姻関係を築き、シンハラ人王朝の中で実権を握っていきます。ジャフナ王国や南インドのヴィジャヤナガル王国など、対外的にも防衛と侵攻を続けました。最終的にはヴィラ・アラケスワラが王権を手に入れ、彼は王名ヴィジャヤバーフ6世として、そしてアラケスワラ家の最期の王として1397年に即位します。



■鄭和艦隊の来島


当時のスリランカの状況を大きく変えた事件が鄭和の艦隊の来島でした。明の永楽帝の命で主に朝貢関係の樹立のために南海への航海を繰り返した鄭和艦隊は、そのすべての航海でスリランカを訪れています。永楽帝の意図としては航海は朝貢関係の樹立と明の示威行為としてのものであり、軍事的なものではありませんでしたが、寄港先の紛争への介入、また襲撃を受けた際の防衛のために兵士も多数乗船しており、実際に彼らが活躍する場面も少なくありませんでした。


鄭和の航路
画像出典:愛宕松男・寺田孝信『中国の歴史 第6巻 明・清』1974 講談社



ヴィラ・アラケスワラはスリランカにおける明の艦隊の存在を危険視していました。またコッテ政権は近隣海域での侵略や海賊行為を行っていたため、明としても手を焼いていたようです。お互いの緊張が高まる中、鄭和の第3回航海、1411年には明-コッテ戦争と呼ばれる衝突が生じます。


各国を巡り朝貢品を載せた鄭和艦隊がコロンボに停泊すると、ヴィラ・アラケスワラは艦隊の宝物を奪おうと奇襲を仕掛けます。鄭和艦隊は逆にこれを返り討ちにしてコッテに侵攻、ヴィラ・アラケスワラを始めアラケスワラ家と王族の人間を捕虜に取ります。捕虜となった王一行は永楽帝のもとに献上され王権を剥奪され、アラケスワラ家の時代は終焉を迎えました。


あくまで平和的な外交を意図していた永楽帝は捕虜の返還を約束しますが、スリランカを支配下に置くために自ら王を任命します。捕虜となった王族が次の王を選定し、明の権威の下で新たにパラクラーマバーフ6世が即位し、コッテ王国が成立します。鄭和艦隊の保護のもと1415年には都がコッテに移り、大陸の超大国の権威を得たパラクラーマバーフ6世は徐々に支配力を強め、1450年にはジャフナ王国も支配下に収めてスリランカ全土を統一しました。



■明による政権更新以降のスリランカ


パラクラーマバーフ6世はスリランカ全土を支配下に収めたものの、明に捕らえられたことでアラケスワラ家とコッテ政権の権威は失墜しており、各地で地方勢力が台頭していきます。1467年にはジャフナ王国が再びコッテ王国からの独立を果たし、真珠や象、シナモンなどの輸出で莫大な利益を得て発展していきます。またキャンディでは14世紀末からヴィクラマバーフ3世のもとで都市整備が進んでおり、ヴィラ・アラケスワラの退位を機に半独立国としての性格を強くしていました。1496年にはセナ・サムマタ・ヴィクラマバフが王として即位し、コッテ王国の支配のもとで発展していきます。


これ以降、スリランカではこのコッテ、キャンディ、ジャフナの3国が主体となり、欧米列強の干渉を受ける植民地時代へと向かっていきます。



Text by Okada


2020-08-07

スリランカの歴史⑤ ポロンナルワ時代

 スリランカの歴史を紹介する第5回。今回はポロンナルワ時代をご紹介します。


ポロンナルワはスリランカ中央部に位置し、従来の都アヌラーダプラから南東に約80㎞離れた町です。チョーラ朝によってアヌラーダプラが占拠されたため、よりチョーラ朝の影響の及びにくい南方の代替の都として発展していきます。


1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)








■ヴィジャヤバーフ1世の治世


11世紀初頭は南インドのタミル人国家チョーラ朝がラージャラージャ1世、そしてその後継であるラージェンドラ1世の治世で最盛期を迎え、スリランカもその支配のもとに組み込まれます。しかし1055年、スリランカでシンハラ人の王ヴィジャヤバーフ1世はチョーラ朝に対しての抵抗運動を開始し、1070年にチョーラ朝の内政抗争の隙をついて蜂起、1073年にはポロンナルワを奪還します。この際には同じく南インドのタミル人国家ですが、チョーラ朝に敵対していたパンディーヤ朝、またスリランカと同じくチョーラ朝の支配下にあったミャンマーのビルマ人王朝:パガン朝などからの支援もあったようです。


ヴィジャヤバーフ1世は南部のルフナ王国の出身です。スリランカはこれまで大きく3つの地域勢力に分かれており、北部のラジャ王国、南部のルフナ王国、コロンボ周辺のダッキナデサ王国がそれぞれ存在していました。アヌラーダプラやポロンナルワを擁し最大の勢力だったのが島の中央部から北部沿岸までを支配域としたラジャ王国で、これまでのシンハラ人王朝でも他の2勢力に対して支配的な立場にあった勢力です。ヴィジャヤバーフ1世はまず南部の自国ルフナ王国からチョーラ朝の勢力を追放し、徐々に北上してシンハラ人の支配域を奪還していきました。


ヴィジャヤバーフ1世はポロンナルワ王国の国王として即位し、都のポロンナルワは王の名から「ヴィジャヤラジャプラ」と改称されました。その後、ヴィジャヤバーフ1世は国の再興を目指して尽力します。およそ1世紀に渡って従来の都アヌラーダプラを占拠されていた間に、スリランカからは仏教僧が減り、仏教の信仰自体が衰退していました。ヴィジャヤバーフ1世はミャンマーのパガン朝から僧を招き、仏教国としての再建を目指します。また、聖地であるスリ・パダ(スリランカ最高峰のアダムス・ピーク)への巡礼の道を整備し、巡礼路の街の整備も進めて行きます。さらに、新たな貯水池を建設し、灌漑システムを再構築するなど大規模な公共事業を行い、首都の整備も進めて行きます。


ヴィジャヤバーフ1世の建設したアタダーゲ。王権の象徴である仏歯を祀った寺院跡です。



ヴィジャヤバーフ1世は1110年に亡くなるまでの55年間、ポロンナルワの王として君臨し、老齢になるまでの長い支配にちなんで「マハー・ヴィジャヤバーフ」(偉大なるヴィジャヤバーフ)と呼ばれます。現在のスリランカ陸軍の歩兵隊はこの偉大な王の名をとって「Vijayabahu Infantry Regiment」(ヴィジャヤバーフ歩兵連隊)と名付けられています。


この時代はラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力はポロンナルワ王国の下に統治されていましたが、ヴィジャヤバーフ1世の死後はまた王権を巡って3勢力間の抗争が続きます。



■パラークラマバーフ1世の治世

ヴィクラマバーフ1世の死後は彼の兄弟や息子たちの治世が続き、またラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力が王権を巡って争う状況が続きました。その中で、3勢力の権力を掌握しスリランカ全島を支配下に置いたのがヴィジャヤバーフ1世の孫、パラークラマバーフ1世です。


パラークラマバーフ1世はコロンボ周辺の勢力、ダッキナデサの王家の出身です。叔父から王位を継いだパラークラマバーフ1世はガジャ国の王ガジャバーフを破ってポロンナルワを獲得し、またガジャ国と同盟を組んでいたルフナ国勢力による攻撃を退け、1153年にスリランカ島の全権を掌握するに至ります。ポロンナルワを都としたパラークラマバーフ1世は、ヴィジャヤバーフ1世と同様に仏教寺院や灌漑設備の建設を進め、33年間の治世の間にポロンナルワは大きく発展していきます。


パラークラマバーフ1世の建設した貯水池はパラクラマサムドラとして知られ、従来からあった貯水池を拡充し、さらに新たな貯水池を追加したものです。面積22㎢に及ぶ巨大な貯水池は現在でも貴重な水源として利用されています。また、ポロンナルワ宮殿やガル・ヴィハーラ等、ポロンナルワに残る遺跡の多くもパラークラマバーフ1世の治世で建設されたものです。彼自身の石像と呼ばれるレリーフも残されています。


パラークラマバーフ1世と伝えられる石像(モデルについては他諸説あり)



ポロンナルワ王宮跡

ガル・ヴィハーラの仏像



また、パラークラマバーフ1世は周辺諸国に対しても影響力を増していきます。友好関係にあったミャンマーのパガン朝でシンハラ人の使者を捕らえたことに抗議して軍を派遣し、また南インドのタミル人に対しても牽制措置をとっています。アダムス・ブリッジのあるポーク海峡を隔ててスリランカと接するラメスワラムにシンハラ人の街を建設し、チョーラ朝やパンディヤ朝といった南インドの国家に対してある程度の支配力を維持していました。


また、仏教を通しての周辺諸国との交流も密接で、ポロンナルワには度々タイ、ミャンマー、カンボジア等から仏教僧が訪れていたこともわかっています。トゥマハル・プラサーダはタイの上座部仏教の寺院に類似した仏塔で、タイからの僧、建築士によって建てられたものと考えらえています。


トゥマハル・プラサーダ


ポロンナルワ王国の下でのスリランカの統一、またその統治下での文化の興隆から名君として知られるパラークラマバーフ1世ですが、度重なる遠征や公共事業のために大量の資金を費やし、また国民にも重い税を課しており、国家としての財政状況は芳しくなかったようです。後の統治者であるニッサンカ・マッラの治世では、最も民衆の支持を受けた政策はあまりにも高すぎる税率の引き下げだったそうです。


しかしパラークラマバーフ1世の人気は絶大なもので、次の400年の間にはパラークラマバーフ1世の名を自身の名に採用する君主が7人以上存在していたと伝えられています。また、現在のスリランカ海軍の船にもパラークラマバーフ1世にちなんで名づけられた2隻の軍船が存在しています。



■ニッサンカ・マッラの治世

パラークラマバーフ1世の死後は従弟のヴィジャヤバーフ2世が王権を引き継ぎます。そしてこのヴィジャヤバーフ2世が副王として選んだのがニッサンカ・マッラでした。


ニッサンカ・マッラはスリランカではなく、インドのカリンガ国の出身です。カリンガ国はシンハラ人の祖:ヴィジャヤ王のルーツとなる地であり、ニッサンカ・マッラ自身もヴィジャヤの血を継ぐ者として王権を持つと考えられました。副王としてスリランカに招かれたニッサンカ・マッラはヴィジャヤバーフ2世の王権を継ぐはずでしたが、ヴィジャヤバーフ2世はニッサンカ・マッラと同じくカリンガ国出身のマヒンダ6世によって殺害され、マヒンダ6世が王権を強奪します。


しかしその僅か6日後にニッサンカ・マッラはマヒンダ6世を粛正、ポロンナルワの王として即位します。ニッサンカ・マッラはパラークラマバーフ1世の意思を継ぎ多くの仏教寺院を建設、また貯水池など灌漑設備の拡充に努めました。ポロンナルワに残るランコトゥ・ヴィハーラ、ニッサンカ・ラタ・マンダパヤ、ハタダーゲなどの建築は彼の治世で建設されたものです。また、ミャンマーのパガン朝やカンボジアなどの遠隔地とも良好な関係を築き、南インドに対しても牽制を続けるなど対外政策にも優れた政策を行っていました。カリンガ国出身の王という異色の出自でしたが、人徳のある王として称えられたと伝えられています。

ポロンナルワ最大の仏塔:ランコトゥ・ヴィハーラ


ニッサンカ・マッラが僧の読経を聞いていたというラタ・マンダパヤ



王宮内のニッサンカ・マッラの沐浴場








■ポロンナルワ王国 黄金時代の終焉


民への重税の緩和もあり人気の高かったニッサンカ・マッラですが、パラークラマバーフ1世と同じく多くの公共事業を行ったため、次第に国の資金は枯渇していきました。黄金時代とも呼べるポロンナルワ王国はニッサンカ・マッラの死後急激に弱体化し、再び南インドのタミル人国家による侵入を受けていきます。


1200年にはスリランカ島北端のジャフナ半島にタミル人の入植がはじまり、後の1300年にはタミル人国家ジャフナ王国が建国されます。また、カリンガ国出身のタミル人:マーガ王がジャフナ半島からスリランカへ侵攻し、1215年にはポロンナルワを占領しています。シンハラ人は王権の象徴である仏歯をポロンナルワから持ち出し、以降はスリランカの南部へと遷都を繰り返していくこととなりました。


マーガ王はその後シンハラ人のヴィジャヤバーフ3世の抵抗運動によって廃され、1287年にはシンハラ人によってポロンナルワが奪還されました。しかし1293年にヴィジャヤバーフ3世の治世が終わった後にポロンナルワは放棄され、1900年代のイギリス統治下で発掘が始まるまでジャングルに埋もれることになります。


ポロンナルワ王国の終焉の後、スリランカでは小国シンハラ人とタミル人の各国家が併存する動乱期に入っていきます。



Text by Okada










2020-07-10

スリランカの歴史②スリランカ通史概説 後編



 スリランカの歴史紹介の第2回。今回は通史概説後編と題して、植民地時代から独立後の内戦期、そして現代に至るまでの道のりを辿っていきます。

(前回の記事の範囲)
1.       スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)
2.       アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.       ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.       動乱期(13世紀末~1505年)

今回紹介する範囲
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)



5.       ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)


当時、ポルトガルは東南アジアの香辛料貿易の開拓を進めており、南インドのケララ地方、またスリランカで算出するシナモンを入手することも目標の一つでした。そんな中1505年にポルトガルの商船がコロンボへ漂着します。

 ポルトガルの船の大砲や銃などの武器を警戒したコーッテ王国はこれを警戒してポルトガルと和平条約を結びます。そして10年後の1515年、ポルトガルは軍艦を率いて再びコロンボへ上陸し、勝手に要塞を建設し始めます。コーッテ王国はこれに異を唱えて軍を率いて抗議しますが、ポルトガルの兵力にかなわず敗退し、実質的に今後のポルトガル商船の自由な出入りを認めることになります。

 コーッテ王国がポルトガルと友好関係を築いたのには、当時王国内で起こっていた内紛を治めるための軍事力を得るためという目的もありました。しかし結果的にはこれがポルトガルへの依存を高め、コーッテ王国の求心力を失うことに繋がってしまいます。1521年にはコーッテ王国の国王が暗殺され、王国はコーッテ/シータワカ/ライガマの3つに分裂しました。

分裂後のコーッテ王国では国王がポルトガルによって指名されたり、その国王がカトリックへ改宗させられたりと徐々にポルトガルの干渉が激しくなっていきます。1571年にはゴールへ要塞を築いて本拠地とし、また1580年にはコーッテ国王に対して、「自分が亡くなった後はランカ島をポルトガル国王へ譲る」と宣言させています。

1859年にポルトガルが砦を築いたゴールの街(写真:ゴール灯台)



 コーッテ王国のほかに対しても、カトリックへの改宗を拒否したタミル人国家のジャフナ王国へ進軍したり、キャンディ王国へ進軍したりとスリランカ全土の支配へ向けて版図を広げていきます。


 1597年、コーッテ王国のダルマパーラ王が死去し、シンハラ王朝としての王権はキャンディ王国に引き継がれます。ちょうどこのころに新たにオランダがスリランカへ進出しており、キャンディ王国は17世紀前半からはオランダと協力してポルトガルの侵略に対抗します。

 ポルトガルはキャンディ王国からトリンコマリーやバッティカロアなどの地方を略奪しますが、都のキャンディではキャンディ王国に敗退し、またその後オランダにトリンコマリーとバッティカロアを奪われ、キャンディ王国に返還させられています。オランダが相手となると分が悪いことを悟ったポルトガルは1645年にオランダとの和平条約を締結。一時安寧の時代が流れますが、1656年にポルトガルが支配していたコロンボをオランダが奪取し、拠点を失ったポルトガルはスリランカから追放されます。
 オランダ植民地時代の始まりです。


6.       オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)


キャンディ王国と協力体制をとっていたオランダですが、ポルトガルという強敵がいなくなった後は着実に侵略者としてのスリランカ支配を進めていきます。キャンディ王国からトリンコマリーとバッティカロアを奪取した他、ジャフナ王国も支配下に収めました。

その後一旦キャンディ王国との休戦協定を結ぶものの、1766年の和平条約はキャンディ以外の多くの地域をオランダに譲るという屈辱的なものであり、実質的なオランダの支配を意味するものでした。

キャンディの仏歯寺には王権の象徴である仏歯が祀られています
ゴールのオランダ教会。現代に残る世界遺産フォート地区は主にオランダ占領期に形成された


オランダは当時、世界初の株式会社であるオランダ東インド会社を設立し、南・東南アジアの香辛料貿易を独占することで莫大な利益を得ていました。決定的な出来事は1623年のアンボイナ事件です。これはクローブなどの産地であるインドネシアのアンボイナ島でオランダがイギリス商館を襲い、イギリス勢力を一掃してオランダ支配を確立した事件でした。

イギリスはこれを理由として東南アジア進出を断念しインド進出へ路線を変えますが、これはイギリスの反オランダ感情を大いに煽る事件でもありました。イギリスはこの後、1795年よりスリランカにて再びオランダと抗争を始め、重要地域を次々と攻略して1796年にはオランダ勢力をスリランカより一掃します。



7.       イギリス植民地時代(1796年~1948年)


1802年、オランダは正式にスリランカをイギリスへ割譲。イギリスによる植民地支配が本格的にスタートします。1815年にはキャンディ王国内での内乱に乗じてキャンディに進軍し、2400年以上にわたって続いたシンハラ王朝を断絶させ、スリランカの完全統治を果たしました。

 その後、植民地としての行政・司法・議会などの整備を進めると同時にコーヒーのプランテーションを本格化させ、南インドから大量のタミル人を労働力として移住させました(これが後の民族問題へも発展します)。1870年には病害で壊滅したコーヒーに代わり当時インドで成功しつつあった紅茶のプランテーションをスリランカで開始しています。

スリランカを代表する品目となったセイロンティーの収穫風景(ヌワラエリヤ)


 その後も植民地支配の土台として行政整備を進めますが、「少数派のタミル人(ヒンドゥー教徒)を行政幹部として重用することで多数派のシンハラ人(仏教徒)との間に軋轢を生じさせ民族対立を煽り、スリランカとしての英国からの独立運動の発展を避ける」という分割統治は後の凄惨な内戦の原因となりました。


しかし第一次・第二次世界大戦中にシンハラ派・タミル派ともに独立を望む民族運動が徐々に発展していきます。第二次世界大戦後の1948年、ついにスリランカはイギリス連邦内の自治領として独立し152年に及ぶイギリス支配を脱しますが、イギリスという圧倒的支配が除かれた結果、興隆したそれぞれの民族意識は内戦として噴出することになってしまいます。


8.       スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)


スリランカ内戦についてはまた改めて記事として紹介しますが、ここでは概要のみ確認します。

スリランカ国内にはシンハラ人(74%:主に仏教徒)・タミル人(18%:主にヒンドゥー教徒)、スリランカ・ムーア人など多くの民族が暮らしますが、イギリスの分割統治の結果としてシンハラ人は貧しく、タミル人は高い教育を受けて所得が高いという状況がありました。

状況が大きく変わったのは1956年のバンダラナイケ政権からです。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」を掲げて選挙で圧勝し、シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策など急進的な政治を進め、タミル人の反発を招きます。この年から各地でシンハラ人とタミル人の間の衝突が頻発していきました。

その後もシンハラ人優遇政策は続き、少数派であるタミル人への圧迫が激しくなります。タミル人側では後の「タミル・イスラームの虎(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Ealam)」の前身となる過激派組織が結成され、1983年以降は政府軍との全面的な戦争状態へ発展します。また、タミル人難民のカナダ等北米、欧州、アジア各国への避難も進んでいきます。

画像出典:外務省:スリランカ内戦の終結~シンハラ人とタミル人の和解に向けて


 状況が再び変わるのは2002年、中東和平などでも活躍したノルウェーの駐安芸で政府側とLTTEの間に一時停戦合意が成立します。その後も6回の和平交渉が行われますが、2005年のラージャパクサ大統領就任後に再び状況が悪化、2008年には停戦合意が正式に失効します。

 タミル人側は国際社会への呼びかけと協力要請を続けますが、スリランカ政府軍はその間も徐々にLTTEの拠点を攻略して行きます。そして2009年5月19日、LTTEのプラバーカラン議長の死亡を確認したことで内戦の終結が宣言されました。平和的解決ではなく、スリランカ政府軍の勝利によって解決の形をとった内戦では7万人以上の死者が記録されています。



9.       内戦終結後~現代 (2009年~)


ラージャパクサ大統領は、すべての国民に受け入れ可能な政治解決に取り組んでいくことを表明しています。現在も約28万人のタミル人難民がスリランカ国内に存在し、不衛生な難民キャンプでの生活を強いられています。また内戦で破壊されたインフラの復旧や地雷の撤去など多くの課題が残されており、両民族の軋轢も解消の途上にあります。

 しかし内戦後、スリランカは平和の上の経済成長を遂げていきます。コロンボには海外資本の企業も参入し、自由に訪問ができることになったことで観光業も発展、多くの観光客が訪れる魅力的な観光国となっています。


 昨年2019年にはイスラム過激派による同時多発テロが発生し、邦人1名を含む250人以上が亡くなるという痛ましい事件がありました。その後厳重な警備の下で観光客数は戻りつつありましたが、現在は新型コロナウイルスの影響で再び観光業は大きな打撃を受けています。1日も早く、スリランカを含め国際的な状況が回復することを願っています。


Text by Okada

2018-07-30

最北の地、ジャフナに行ってきました -その③-

アーユボワーン!!!

ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

前回に引き続き、本日は第三回目のジャフナについて
ご紹介させていただきます!!

今、個人的にジャフナブームが熱いです。

さて本日は最北の地、【ポイント・ペドロ】のご紹介から!

マダガスカルって。。。笑
最南や最北って、やっぱり引かれる響きですよね。

ポイント・ペドロ。
ちゃんと名前があるからしっかりしているところかしらー!
まさかなー そんなバナナー
と思っていると・・・

それらしき看板もあります!
何気にいろんなものがありました。
きっと、最北端というプライド?があるのでしょうか。

良い感じの古さがスリランカっぽいなと思いました。

かなり風化が進んだ地図・・・
車を降り、少し歩いて到着です。
最北端、ポイント・ペドロ。
海辺だからでしょう、コンクリート?で作られています。

まったく期待していなかったので、ちょっと嬉しい気持ちに。
記念写真が進みました。

最北地には国旗が!

皆さんもぜひ、この国旗の前で写真撮影楽しんでください!

お気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、
これだけジャフナをオシテイルのには理由が・・・!

そうです!ジャフナツアー、ついに作りました!
■スリランカ最北の地 ジャフナ タミル人の町を訪ねて2泊3日■

ご紹介しきれていない遺跡も多々・・・。
坂本全力で企画させていただきました、渾身のツアーです。

郊外の遺跡、カンタロダイ遺跡

今もなお採掘が行なわれているというカンタロダイ遺跡。

住民の方々の敷地内まで入ることができれば、もっと同じような
遺跡があるのでは、と学者さんたちはお考えのようです・・・

黄金に輝く像

ひときわ目立つこちらのハンサムな像。
16世紀にジャフナ王国を治めた王様、サンギリの像です。

ツアーは2泊3日の設定ですが、もしお時間が許すようでしたら、
もう1泊、延泊されることもご検討ください!

町のいたるところにロバがいて興味深いですよ♪

このエリアでしか見れないであろう、ロバ

ちなみに・・・
余談ですが、弊社の母体である 西遊旅行 でも
今年はジャフナへの観光を含んだツアーを発表しているのです!

■8つの世界遺産を訪問 ゆったりスリランカ周遊■

贅沢に16日間かけて、スリランカを隅々まで周るツアー。
スリランカのいいところを「ぎゅーっ」と詰めて、
それぞれの地域でしっかり見て周る。

そんなツアーになっていると思います。

皆さんもぜひ、今度のお休みはスリランカへお越しください!

お問い合わせはこちらから
→ お問い合わせページ

Text and Photo by Reina Sakamoto

2018-07-25

最北の地、ジャフナに行ってきました -その②-

アーユボワーン!!!

ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

前回に引き続き、本日もジャフナについて
ご紹介させていただきます!!

ジャフナ!といえばやっぱりここ↓↓↓

美しい金色に輝いていました

ジャフナのシンボル的なヒンドゥー寺院、
「ナッルール・カンダスワミ寺院」。
8月のキャンディで行なわれるペラヘラ祭りのような盛り上がりを見せる、
大規模なお祭りで有名な寺院です。

私は時期がら、なかなか事務所を離れられず・・・
まだ1度もお祭りに行くことができていませんが、だいぶ、盛り上がるようです。
26日間ですからね!
ちなみに、今年は8月16日から9月11日までのようです。

仏教徒が多いスリランカですが、ここジャフナは
南インドからの移住者を祖先にもつ、タミル人が多く暮らし、
信仰している宗教もヒンドゥー教が多いです。
(ちなみに!仏教を信仰している多くのスリランカ人はシンハラ人です)

そのため、いたるところでヒンドゥー文化を感じることができます。

ヒンドゥー教寺院のゴープラム(塔門)

壁で囲まれた、インドでよく知られているドラヴィダ様式の
ヒンドゥー教寺院に用いられるゴープラム。

南インドのミナークシ寺院などが有名ですよね。
かなり色とりどり、神様もたくさんいます!

ここからも南インドの文化を感じることができます。

マヴィッダプラム・カンダスワミ寺院

こちらの寺院は7世紀に建てられ、
ポルトガルにより17世紀に一度破壊されていますが、
その後に再建され、現在の姿になりました。

内戦の時には幸いにも被害をあまり受けなかったみたいです。

運転中にみかけたヒンドゥー寺院

本当に、運転中にぼけーとしているとぱっとカラフルな寺院が!
日本人にとって、宗教ってやっぱりどこか遠い存在なので、
ヒンドゥー教のようにたくさんの神様がいて、それぞれの神様に神話があって、、
お祈りに来る地元の方々がいて。

とても興味深いです。

建設中のヒンドゥー寺院、こうやってつくられるのですね。。。

交差点にはおっきなハヌマーンがいました!!
インド二大叙事詩の一つ【ラーマヤーナ】に登場し、大活躍する神様です。
この神話はどこかまた別の機会でご紹介しますね!
面白いですよ!!

猿の神様、ハヌマーン
ヒンドゥー文化は寺院だけでなく、各家庭でも見受けられます。
家庭の玄関ではナンディーが。

玄関先にいるナンディー

ナンディーって、何でぃ?(笑)

ヒンドゥー教の3大神のひとり、シヴァ神の乗り物といわれています。
ほかの家庭でもちらちら見ました。

まるでスリランカではなく、南インドに来ているよう・・・
新鮮です!


次回はジャフナの話、最終回!!!
お楽しみに~


Text and Photo by Reina Sakamoto

2018-07-20

魅惑の町、ジャフナに行ってきました -その①-

アーユボーワン!!!

ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

夏ですね~
日本では猛暑日が続く、などとよくネットニュースで見ますねが、
皆さんぐったりされているのではないでしょうか。
個人的な感想になるかもしれませんが、スリランカはカラっとしている暑さなので
体感温度は日本にいるよりも低いのかなと。。。

今回は暑い国スリランカの中でもさらに暑い場所、
最北の町、ジャフナ!についてご紹介です!

西遊旅行提供 MAP

これからの時期は40度越えも普通?なジャフナ。
弊社のガイドや知人のスリランカ人は口をそろえて
「砂漠」と呼んでいるエリアです。

7月の某日、わくわくどきどきしながら朝4:30に事務所を出発。。。
ジャフナまでの移動時間は8時間ほどかかる、
といわれていたのでかなり気合を入れました!

途中にティータイムやパン屋さんでの朝食タイムもはさみつつ・・・
(助手席の私はほぼずっと爆睡でしたが)

たどり着いたのが【エレファント・パス】!!
ジャフナ半島とスリランカ本島を結ぶ、幹線道路A9です。

線路とラグーン

この写真を撮影した後、リアルに列車にひかれそうになりました・・・
あわてすぎて列車を撮影した写真はブレブレでしたが、
列車で見るこの景色はまた一層、きれいなのだろうな~としみじみ。

本当にとっても素敵なそらの青、ジャフナラグーンの青と線路!

線路と道路が1本あるのみ。
なんとも素敵な景色です。


結局、ジャフナ市内に到着したのは11時を過ぎた時です。
移動はやっぱり長いです!

どこか雰囲気の違う町並み・・・?

ジャフナまでの移動手段の一つ、列車。
今回は車で移動していますが、ジャフナへはコロンボから寝台列車なども通っています。


ジャフナの駅 カウンター
1日の列車本数が多くないせいか・・・
とってもがらがら。笑

特別に記念写真だけ撮影しに駅構内へ
お気付きの方もいらっしゃるかと。
そうです、この地域は南インドをルーツとするタミル人が多いので
おのずとタミル語表記が多くなります。

言葉も全然違うので、ガイドも少々手間取っていました。。。

ジャフナ市内の観光スポットといえば、地図上でもひときわ目立つ、
星型のジャフナ・フォート。

地上からでは星型が見えず・・・

ポルトガルの植民地政策が始まった頃に築かれた砦。
スリランカで最も頑丈ともいわれています。

一番右の禁止事項・・・
今では地元の人のデートスポットのひとつになっているみたいですね。
ジャフナ・フォートの中は瓦礫の山が・・・
16世紀に植民地化となった頃の面影がうかがえます。

瓦礫がたくさん。時の流れを感じます

ジャフナ市内観光スポット、ジャフナ図書館。

放火された後、再建されました

内戦の間に放火され、タミル語で書かれた基調な書籍が
大量に失われてしまったそうです。

内戦が終結してまもなく10年。
この地域には国内旅行客やフィールドトリップ(修学旅行?)として
訪れる学生も増えてきたジャフナ。
最初は東京と大阪くらいの差か、と思っていましたが、
言葉だけでなく文字、祖先も違うのでまったく違いますね。。。

みんな、どんなことを感じるのか、興味深いです。

ジャフナの話、その②へ続きます!!!


Text and Photo by Reina Sakamoto