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2020-08-14

スリランカの歴史⑥動乱期

スリランカの歴史をご紹介する第6回、今回は13世紀末から15世紀末にかけての動乱の時代を取り上げます。


この時期はタミル人によるジャフナ王国が成立し、シンハラ人王朝と衝突を繰り広げました。シンハラ人王朝はジャフナ王国との攻防の中で島の中央部~西部にかけて何度も遷都を繰り返し、また内部抗争や分裂も激しくなります。さらに、マルコ・ポーロ、イブン・バットゥータの二人の探検家がスリランカを訪問し、中国の明から鄭和が訪れてシンハラの王を捕らえるなど、国際社会の影響を受け始めます。後に訪れる、欧米諸国の植民地時代への過渡期としても捉えられる時代です。



1.  スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)

2.  アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.  ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.  動乱期(13世紀末~1505年)

5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9. 内戦終結後~現代 (2009年~)



■ジャフナ王国の建国 ポロンナルワ時代から動乱期へ


前回の記事で紹介したヴィジャヤバーフ1世、パラークラマバーフ1世、ニッサンカ・マッラの3人の名君により黄金時代が築かれたポロンナルワですが、度重なる対外戦闘や公共事業により王国の財政は悪化し、次第にその力を失っていきます。


その中で、南インドからスリランカの北端部であるジャフナ半島へタミル人の入植が始まります。この動きを率いたのはカリンガ国出身と言われるカリンガ・マーガでした。カリンガ・マーガはジャフナ半島からスリランカへの侵攻を始め、1215年にはポロンナルワを占領します。その後はスリランカ北東部を支配下に置き、1258年からは南インドのパーンディヤ朝に従属しますが、1323年にはパーンディヤ朝の政治不安に乗じて独立を果たしました。以降はシンハラ人王朝と衝突を繰り返しますが、14世紀初頭から中頃にかけてはスリランカでの覇権を握るほどに発展していきます。



■シンハラ人王朝の度重なる遷都と興亡


ポロンナルワの王: ヴィジャヤバーフ3世はカリンガ・マーガの侵入を受けて約110㎞南西のダンバデニヤへ遷都します(ダンバデニヤ王国の成立)。さらに13世紀後半にはブヴァイナカバーフ1世によりダンデバニヤから約50㎞北東のヤパフワへ遷都。ここではシギリヤのように周囲の低地から突き出すように盛り上がった巨大な花崗岩の上に、要塞のように宮殿が置かれました。王権の象徴である仏歯もここに移されますが、ブヴァイナカバーフ1世の死後はタミル人国家の侵略を受け、仏歯も奪われています。


しかしその後、後継のパラークラマバーフ3世は1288年にポロンナルワと共に仏歯を奪還し、1293年までポロンナルワに都をおきます。ジャフナ王国の占領によって荒廃してしまった仏教寺院の整備に尽力しますが、この後も遷都は続き、実質的にはポロンナルワに都が置かれたのはこのパラークラマバーフ3世の時代が最後となりました。



パラクラーマバーフ3世によって建設されたランカティラカ (ポロンナルワ)



パラークラマバーフ6世の命で描かれたティワンカ・ピリマゲ寺院の壁画 (ポロンナルワ)



パラークラマバーフ3世の死後、3代にわたってクルネガラを都として統治が続きます。その後一度ダンデバニヤ、ヤパフワを経由し、1353年にはパラークラマバーフ5世によってさらに南下したガンポラに都が移され(ガンポラ王国の樹立)、後継のヴィクラマバーフ3世によって仏歯が奉納されました。



■アラケスワラ(アラガッコナラ)家の台頭


ガンポラに都が置かれたヴィクラマバーフ3世(1359-1374)の治世の時代に台頭し、後のスリランカ支配に関わることになったのがアラケスワラ家(又はアラガッコナラ家)です。この一族の祖となるニッサンカ・アラガッコナラは南インドの現タミル・ナードゥ州のカンチープラム出身の商人であり、13世紀初頭からスリランカに定着したと考えられています。


彼の孫:アラケスワラは、ヴィクラマバーフ3世に仕える大臣としてジャフナ王国に対抗し、現在のスリランカの首都:スリジャヤワルダナプラコッテの地に砦を築きます。この土地は2本の川が交わり沼地に囲まれた防衛に適した地で、「ジャヤワルダナ(勝利の地)」と呼ばれていましたが、この後に「コッテ(砦)」と呼ばれるようになりました。

スリランカは1985年から首都をコロンボからスリジャヤワルダナプラコッテへ変更していますが、その計画を主導したのが当時のジャヤワルダナ大統領でした。大統領はコッテの旧称と自分の名前が同じ「ジャヤワルダナ」であることにちなみ、新たな首都の名を「スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ(聖なる・勝利をもたらす・街・コッテ)」としたとされています。

ジャヤワルダナ大統領 画像出典:J.R. Jayewardene Centre



アラケスワラ
の死後は一族の中で権力を巡った争いが生じますが、アラケスワラ家は王族とも婚姻関係を築き、シンハラ人王朝の中で実権を握っていきます。ジャフナ王国や南インドのヴィジャヤナガル王国など、対外的にも防衛と侵攻を続けました。最終的にはヴィラ・アラケスワラが王権を手に入れ、彼は王名ヴィジャヤバーフ6世として、そしてアラケスワラ家の最期の王として1397年に即位します。



■鄭和艦隊の来島


当時のスリランカの状況を大きく変えた事件が鄭和の艦隊の来島でした。明の永楽帝の命で主に朝貢関係の樹立のために南海への航海を繰り返した鄭和艦隊は、そのすべての航海でスリランカを訪れています。永楽帝の意図としては航海は朝貢関係の樹立と明の示威行為としてのものであり、軍事的なものではありませんでしたが、寄港先の紛争への介入、また襲撃を受けた際の防衛のために兵士も多数乗船しており、実際に彼らが活躍する場面も少なくありませんでした。


鄭和の航路
画像出典:愛宕松男・寺田孝信『中国の歴史 第6巻 明・清』1974 講談社



ヴィラ・アラケスワラはスリランカにおける明の艦隊の存在を危険視していました。またコッテ政権は近隣海域での侵略や海賊行為を行っていたため、明としても手を焼いていたようです。お互いの緊張が高まる中、鄭和の第3回航海、1411年には明-コッテ戦争と呼ばれる衝突が生じます。


各国を巡り朝貢品を載せた鄭和艦隊がコロンボに停泊すると、ヴィラ・アラケスワラは艦隊の宝物を奪おうと奇襲を仕掛けます。鄭和艦隊は逆にこれを返り討ちにしてコッテに侵攻、ヴィラ・アラケスワラを始めアラケスワラ家と王族の人間を捕虜に取ります。捕虜となった王一行は永楽帝のもとに献上され王権を剥奪され、アラケスワラ家の時代は終焉を迎えました。


あくまで平和的な外交を意図していた永楽帝は捕虜の返還を約束しますが、スリランカを支配下に置くために自ら王を任命します。捕虜となった王族が次の王を選定し、明の権威の下で新たにパラクラーマバーフ6世が即位し、コッテ王国が成立します。鄭和艦隊の保護のもと1415年には都がコッテに移り、大陸の超大国の権威を得たパラクラーマバーフ6世は徐々に支配力を強め、1450年にはジャフナ王国も支配下に収めてスリランカ全土を統一しました。



■明による政権更新以降のスリランカ


パラクラーマバーフ6世はスリランカ全土を支配下に収めたものの、明に捕らえられたことでアラケスワラ家とコッテ政権の権威は失墜しており、各地で地方勢力が台頭していきます。1467年にはジャフナ王国が再びコッテ王国からの独立を果たし、真珠や象、シナモンなどの輸出で莫大な利益を得て発展していきます。またキャンディでは14世紀末からヴィクラマバーフ3世のもとで都市整備が進んでおり、ヴィラ・アラケスワラの退位を機に半独立国としての性格を強くしていました。1496年にはセナ・サムマタ・ヴィクラマバフが王として即位し、コッテ王国の支配のもとで発展していきます。


これ以降、スリランカではこのコッテ、キャンディ、ジャフナの3国が主体となり、欧米列強の干渉を受ける植民地時代へと向かっていきます。



Text by Okada


2020-08-07

スリランカの歴史⑤ ポロンナルワ時代

 スリランカの歴史を紹介する第5回。今回はポロンナルワ時代をご紹介します。


ポロンナルワはスリランカ中央部に位置し、従来の都アヌラーダプラから南東に約80㎞離れた町です。チョーラ朝によってアヌラーダプラが占拠されたため、よりチョーラ朝の影響の及びにくい南方の代替の都として発展していきます。


1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)








■ヴィジャヤバーフ1世の治世


11世紀初頭は南インドのタミル人国家チョーラ朝がラージャラージャ1世、そしてその後継であるラージェンドラ1世の治世で最盛期を迎え、スリランカもその支配のもとに組み込まれます。しかし1055年、スリランカでシンハラ人の王ヴィジャヤバーフ1世はチョーラ朝に対しての抵抗運動を開始し、1070年にチョーラ朝の内政抗争の隙をついて蜂起、1073年にはポロンナルワを奪還します。この際には同じく南インドのタミル人国家ですが、チョーラ朝に敵対していたパンディーヤ朝、またスリランカと同じくチョーラ朝の支配下にあったミャンマーのビルマ人王朝:パガン朝などからの支援もあったようです。


ヴィジャヤバーフ1世は南部のルフナ王国の出身です。スリランカはこれまで大きく3つの地域勢力に分かれており、北部のラジャ王国、南部のルフナ王国、コロンボ周辺のダッキナデサ王国がそれぞれ存在していました。アヌラーダプラやポロンナルワを擁し最大の勢力だったのが島の中央部から北部沿岸までを支配域としたラジャ王国で、これまでのシンハラ人王朝でも他の2勢力に対して支配的な立場にあった勢力です。ヴィジャヤバーフ1世はまず南部の自国ルフナ王国からチョーラ朝の勢力を追放し、徐々に北上してシンハラ人の支配域を奪還していきました。


ヴィジャヤバーフ1世はポロンナルワ王国の国王として即位し、都のポロンナルワは王の名から「ヴィジャヤラジャプラ」と改称されました。その後、ヴィジャヤバーフ1世は国の再興を目指して尽力します。およそ1世紀に渡って従来の都アヌラーダプラを占拠されていた間に、スリランカからは仏教僧が減り、仏教の信仰自体が衰退していました。ヴィジャヤバーフ1世はミャンマーのパガン朝から僧を招き、仏教国としての再建を目指します。また、聖地であるスリ・パダ(スリランカ最高峰のアダムス・ピーク)への巡礼の道を整備し、巡礼路の街の整備も進めて行きます。さらに、新たな貯水池を建設し、灌漑システムを再構築するなど大規模な公共事業を行い、首都の整備も進めて行きます。


ヴィジャヤバーフ1世の建設したアタダーゲ。王権の象徴である仏歯を祀った寺院跡です。



ヴィジャヤバーフ1世は1110年に亡くなるまでの55年間、ポロンナルワの王として君臨し、老齢になるまでの長い支配にちなんで「マハー・ヴィジャヤバーフ」(偉大なるヴィジャヤバーフ)と呼ばれます。現在のスリランカ陸軍の歩兵隊はこの偉大な王の名をとって「Vijayabahu Infantry Regiment」(ヴィジャヤバーフ歩兵連隊)と名付けられています。


この時代はラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力はポロンナルワ王国の下に統治されていましたが、ヴィジャヤバーフ1世の死後はまた王権を巡って3勢力間の抗争が続きます。



■パラークラマバーフ1世の治世

ヴィクラマバーフ1世の死後は彼の兄弟や息子たちの治世が続き、またラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力が王権を巡って争う状況が続きました。その中で、3勢力の権力を掌握しスリランカ全島を支配下に置いたのがヴィジャヤバーフ1世の孫、パラークラマバーフ1世です。


パラークラマバーフ1世はコロンボ周辺の勢力、ダッキナデサの王家の出身です。叔父から王位を継いだパラークラマバーフ1世はガジャ国の王ガジャバーフを破ってポロンナルワを獲得し、またガジャ国と同盟を組んでいたルフナ国勢力による攻撃を退け、1153年にスリランカ島の全権を掌握するに至ります。ポロンナルワを都としたパラークラマバーフ1世は、ヴィジャヤバーフ1世と同様に仏教寺院や灌漑設備の建設を進め、33年間の治世の間にポロンナルワは大きく発展していきます。


パラークラマバーフ1世の建設した貯水池はパラクラマサムドラとして知られ、従来からあった貯水池を拡充し、さらに新たな貯水池を追加したものです。面積22㎢に及ぶ巨大な貯水池は現在でも貴重な水源として利用されています。また、ポロンナルワ宮殿やガル・ヴィハーラ等、ポロンナルワに残る遺跡の多くもパラークラマバーフ1世の治世で建設されたものです。彼自身の石像と呼ばれるレリーフも残されています。


パラークラマバーフ1世と伝えられる石像(モデルについては他諸説あり)



ポロンナルワ王宮跡

ガル・ヴィハーラの仏像



また、パラークラマバーフ1世は周辺諸国に対しても影響力を増していきます。友好関係にあったミャンマーのパガン朝でシンハラ人の使者を捕らえたことに抗議して軍を派遣し、また南インドのタミル人に対しても牽制措置をとっています。アダムス・ブリッジのあるポーク海峡を隔ててスリランカと接するラメスワラムにシンハラ人の街を建設し、チョーラ朝やパンディヤ朝といった南インドの国家に対してある程度の支配力を維持していました。


また、仏教を通しての周辺諸国との交流も密接で、ポロンナルワには度々タイ、ミャンマー、カンボジア等から仏教僧が訪れていたこともわかっています。トゥマハル・プラサーダはタイの上座部仏教の寺院に類似した仏塔で、タイからの僧、建築士によって建てられたものと考えらえています。


トゥマハル・プラサーダ


ポロンナルワ王国の下でのスリランカの統一、またその統治下での文化の興隆から名君として知られるパラークラマバーフ1世ですが、度重なる遠征や公共事業のために大量の資金を費やし、また国民にも重い税を課しており、国家としての財政状況は芳しくなかったようです。後の統治者であるニッサンカ・マッラの治世では、最も民衆の支持を受けた政策はあまりにも高すぎる税率の引き下げだったそうです。


しかしパラークラマバーフ1世の人気は絶大なもので、次の400年の間にはパラークラマバーフ1世の名を自身の名に採用する君主が7人以上存在していたと伝えられています。また、現在のスリランカ海軍の船にもパラークラマバーフ1世にちなんで名づけられた2隻の軍船が存在しています。



■ニッサンカ・マッラの治世

パラークラマバーフ1世の死後は従弟のヴィジャヤバーフ2世が王権を引き継ぎます。そしてこのヴィジャヤバーフ2世が副王として選んだのがニッサンカ・マッラでした。


ニッサンカ・マッラはスリランカではなく、インドのカリンガ国の出身です。カリンガ国はシンハラ人の祖:ヴィジャヤ王のルーツとなる地であり、ニッサンカ・マッラ自身もヴィジャヤの血を継ぐ者として王権を持つと考えられました。副王としてスリランカに招かれたニッサンカ・マッラはヴィジャヤバーフ2世の王権を継ぐはずでしたが、ヴィジャヤバーフ2世はニッサンカ・マッラと同じくカリンガ国出身のマヒンダ6世によって殺害され、マヒンダ6世が王権を強奪します。


しかしその僅か6日後にニッサンカ・マッラはマヒンダ6世を粛正、ポロンナルワの王として即位します。ニッサンカ・マッラはパラークラマバーフ1世の意思を継ぎ多くの仏教寺院を建設、また貯水池など灌漑設備の拡充に努めました。ポロンナルワに残るランコトゥ・ヴィハーラ、ニッサンカ・ラタ・マンダパヤ、ハタダーゲなどの建築は彼の治世で建設されたものです。また、ミャンマーのパガン朝やカンボジアなどの遠隔地とも良好な関係を築き、南インドに対しても牽制を続けるなど対外政策にも優れた政策を行っていました。カリンガ国出身の王という異色の出自でしたが、人徳のある王として称えられたと伝えられています。

ポロンナルワ最大の仏塔:ランコトゥ・ヴィハーラ


ニッサンカ・マッラが僧の読経を聞いていたというラタ・マンダパヤ



王宮内のニッサンカ・マッラの沐浴場








■ポロンナルワ王国 黄金時代の終焉


民への重税の緩和もあり人気の高かったニッサンカ・マッラですが、パラークラマバーフ1世と同じく多くの公共事業を行ったため、次第に国の資金は枯渇していきました。黄金時代とも呼べるポロンナルワ王国はニッサンカ・マッラの死後急激に弱体化し、再び南インドのタミル人国家による侵入を受けていきます。


1200年にはスリランカ島北端のジャフナ半島にタミル人の入植がはじまり、後の1300年にはタミル人国家ジャフナ王国が建国されます。また、カリンガ国出身のタミル人:マーガ王がジャフナ半島からスリランカへ侵攻し、1215年にはポロンナルワを占領しています。シンハラ人は王権の象徴である仏歯をポロンナルワから持ち出し、以降はスリランカの南部へと遷都を繰り返していくこととなりました。


マーガ王はその後シンハラ人のヴィジャヤバーフ3世の抵抗運動によって廃され、1287年にはシンハラ人によってポロンナルワが奪還されました。しかし1293年にヴィジャヤバーフ3世の治世が終わった後にポロンナルワは放棄され、1900年代のイギリス統治下で発掘が始まるまでジャングルに埋もれることになります。


ポロンナルワ王国の終焉の後、スリランカでは小国シンハラ人とタミル人の各国家が併存する動乱期に入っていきます。



Text by Okada










2020-07-31

スリランカの歴史④ アヌラーダプラ時代

スリランカの歴史を辿る第3回。今回は、アヌラーダブラに都を移した後、スリランカ全土に対して支配力を持つようになった時代として、アヌラーダプラ時代についてご紹介します。

アヌラーダプラは古くからの都、そして仏教聖地として1982年に世界遺産に登録されており、スリランカの主要な観光地となっています。また周辺の観光地へのアクセスも良いため、北部スリランカの観光の拠点としても利用される街です。

1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.動乱期(13世紀末~1505年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)



■ドゥッタガマニ王によるアヌラーダプラの奪回


紀元前437年にパンドゥカバハヤによって都が開かれ繁栄を誇ったアヌラーダブラですが、紀元前3世紀から南インドのタミル人国家による侵入を受け始め、紀元前3世紀末にはアヌラーダプラを占領されます。その後44年間にわたってアヌラーダプラを占領したチョーラ朝のエララという人物は、後に彼を打倒するシンハラの王:ドゥッタガマニの宿敵としてマハーワンサ(古代スリランカの歴史と伝説を記した物語)にも登場しています。

紀元前161年、シンハラ人の王ドゥッタガマニはエララを退けてアヌラーダプラを奪還します。ドゥッタガマニは英雄的な存在として語られ、再建を遂げたアヌラーダプラ王国はスリランカ史上初めてスリランカ全土に対して支配的な影響力を持つようになりました。

ドゥッタガマニは仏教の再興にも尽力し、アヌラーダプラにも多くの仏教寺院を建設します。中でも最大規模のものがルワンウェリサーヤ仏塔で、これには仏陀の托鉢が埋葬されていると言われています。ドゥッタガマニ自身がこの建設を監督し、完成の際にはインドからも様々な地域の代表団が訪問したと伝えられています。高さ90m、直径91mの巨大な仏塔は現在でもアヌラーダプラのシンボルとなっています。

ルワンウェリサーヤ仏塔


しかし英雄ドゥッタガマニの跡を継いだワラガムバーフ王は再びタミル人国家の侵略を受けて王位を剥奪され、以降再びタミル人国家による支配が続きます。シンハラ人王朝が都を奪還するのは紀元後3世紀に入ったころで、これを指揮したマハーセーナ王は数多くの灌漑用貯水池や運河を建設したことでも知られています。しかし王国は一時安定したものの、これ以降も継続的にタミル人国家との攻防が続き、何度もアヌラーダプラの占領と奪回を繰り返していくことになります。



■王都シギリヤとカッサパ王


タミル人による占領期を除いて基本的にはアヌラーダプラに都がおかれましたが、途中で都が移されたのがスリランカの観光地の中でも随一の人気を誇るシギリヤです。遷都を断行したカッサパ王の物語はよく知られています。

紀元後5世紀、タミル人に占領されていたアヌラーダブラを奪還したのがカッサパ王の父であるダートゥセーナでした。ダートゥセーナにはカッサパとその弟モッガラーナという2人の王位継承権を持つ息子がいましたが、2人は母親が違い、カッサパの母は平民の出身、モッガラーナの母は王族の出身でした。カッサパはこれによって自分に王位が継承されないことを憂い、477年にクーデターを起こしてダートゥセーナを監禁、強権的に王位を継承します。それに続き、王位を奪われることを恐れて弟のモッガラーナの殺害をもくろみますが、モッガラーナは危機を察知して南インドへ亡命していました。

古くからの都アヌラーダブラでは先王ダートゥセーナ派の力が強かったため、攻撃を恐れたカッサパは新たな都としてシギリヤを選び、シギリヤロックの岩上に7年の歳月を費やして王宮を建設します。その後、シギリヤの都はカッサパの治世の終わる495年まで存続しました。


都が置かれたシギリヤ・ロック

岩上からの風景と王宮跡


カッサパの弟モッガラーナは南インドから王権奪取のためにシギリヤに侵攻。カッサパはこの際に自害し、王権はモッガラーナへ移り、モッガラーナによってシギリヤの都は廃され、再びアヌラーダプラへと都が戻りました。シギリヤは仏教僧へ寄進されることになり、その後13~14世紀までは修道院として機能していましたが、以降はキャンディ王国による利用の記録が残るのみです。長く忘れ去られていたシギリヤの都は、その後1887年にイギリス人によって岩壁に描かれたシギリヤ・レディが発見されたことを契機に発見され、現在ではスリランカを代表する名跡として知られるようになりました。

シギリヤ発見の契機となったフレスコ画 シギリヤ・レディ



■ポロンナルワへの遷都


491年にモッガラーナによって再び都がおかれたアヌラーダプラは繁栄を迎えますが、やはり継続して南インドのタミル系諸国、パーンディヤ朝やチョーラ朝からの侵攻を受けていました。度重なる侵攻を受け、769年には南東へ約80㎞離れたポロンナルワへと遷都します。チョーラ朝はその後993年にはアヌラーダプラを占領して支配下に置き、さらに1017年にはチョーラ朝のラージャラージャ1世によってシンハラ人のマヒンダ王が捕らえられ、その代わりとしてタミル人の総督を置くことでポロンナルワとスリランカ全域を支配下に収めました。

チョーラ朝のラージャラージャ1世は南インドで抗争を続けていたパーンディヤ朝を破り、また同じく南インドのケララ、またスリランカ、モルディブにまで支配力を広げ、チョーラ朝最盛期の礎を作った英傑と称えられる人物であり、その名も「王の中の王」を意味します。ラージャラージャ1世がチョーラ朝の都:タンジャブールに7年間かけて建設したブリハディーシュワラ寺院はドラヴィダ建築の最高峰とも呼ばれ、当時のチョーラ朝の繁栄を見ることができます。

南インド、タンジャブールのブリハディーシュワラ寺院


彼の息子として王位を継いだラージェンドラ1世の時代にチョーラ朝は最盛期を迎え、11世紀初頭にはさらなる領土拡大のために北インドのガンジス川流域やスマトラ島まで遠征をするに至っています。


しかし、シンハラ人王朝では1055年にヴィジャヤバーフ王がチョーラ朝支配に対しての蜂起運動を開始。1070年にチョーラ朝の王位が空位になった際の内政不安に乗じて反乱を起こし、チョーラ朝勢力の大半をスリランカから追放します。勢力を盛り返したシンハラ人側は1073年にポロンナルワを奪還し、ヴィジャヤバーフ王はチョーラ朝占領の間に廃れていた仏教の再興のために尽力します。

この後、ヴィジャヤバーフ王の孫:バラークラマバーフ王の時代にスリランカは再びシンハラ人王権の下に統一され、ポロンナルワは仏教聖地として国際的にも存在感のある都へと成長していくことになります。


Text by Okada

2020-06-26

スリランカの歴史① スリランカ通史概説 前編



スリランカの歴史は大変深く、記録に残されているものだけでも2500年以上の歴史を持っています。紀元前5世紀のシンハラ人の王朝の成立以降、13世紀末までは南インドからのタミル人国家との攻防を繰り返しますが、15世紀以降はポルトガル・オランダ、そしてその後第二次世界大戦終結後の独立まではイギリスの植民地としての歴史を歩み、独立後も長い内戦が続き、現在のスリランカへ至っています。

今回からは欧米の植民地支配、独立後の内戦とその2500年の歴史を9つに分けて、スリランカの歴史を追っていきます。各節は非常に簡単な概略ですが、今回はポルトガルの植民地支配の始まりまでの歴史をご紹介します。


1.       スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)
2.       アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.       ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.       動乱期(13世紀末~1505年)

(以下次回更新)
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)


1.スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)


 スリランカの歴史の始まりは紀元前483年と言われています。これは北インドのアーリア系の民族であったウィジャヤ王がスリランカへ渡りシンハラ人の祖となったというものです。この記述自体は紀元後5世紀に入ってから編まれた歴史書「マハーワンサ」に記されたものであり、事実としての信憑性は否定的に取られていますが、伝説としてスリランカ内外に広く知られています。

ウィジャヤ王の妻であるスリランカのクヴェニ女王に関係すると言われる遺跡(ウィルパットゥ国立公園内)


 紀元前377年には首都アヌラーダブラが建設され、その後紀元前250年にインドのマウリヤ朝の王:アショーカの使者であるマヒンダが仏教を伝えたとされています。シンハラ王朝は仏教に帰依して多数の仏教施設を建設し、仏教は国家宗教として発展していきます。

 また、紀元前3世紀末から南インドのタミル人がスリランカに侵入を始め、紀元前210年にはタミル人がアヌラーダブラを征服します。これ以降、スリランカでは常にシンハラ人とタミル人の王朝の攻防が続いていきます。



2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)


 紀元前161年、シンハラ王朝の王ドゥッタガマーニーがタミル人をアヌラーダブラから追放し、初めてスリランカ全域の統一支配を成し遂げます。その後もシンハラ王朝は基本的にアヌラーダブラを都としますが、何度もタミル人による征服を受け、またその度にタミル人を追放して都を奪還しています。

 この間に11年間だけ都として使われたのがスリランカの世界遺産として有名なシギリヤの都です。シギリヤの建設者であるカッサバ王は、タミル人からアヌラーダブラを奪還した父王を殺してシギリヤに新たな都を建設しますが、弟のモッガラーナによって王権を奪われ、その後また都はアヌラーダブラへ戻されています。

 アヌラーダブラは仏教の中心センターとして、また灌漑に支えられた穀倉地帯として栄えますが、継続してタミル系王朝の侵攻を受けていました。紀元前769年には侵攻を避けるために南下したポロンナルワへ遷都しますが、その後もタミル系王朝による侵攻は弱まらず、1017年にはシンハラ王朝の王がチョーラ朝に捕らわれ、新たな都であるポロンナルワもタミル人総督の支配域に置かれることになりました。


アヌラーダブラには仏陀がその下で悟りを開いたという菩提樹の分木が植樹されています

11年間だけ利用された都:シギリヤ



3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)


 チョーラ朝の支配下に置かれたシンハラ王朝ですが、1073年にウィジャヤバーフ王がポロンナルワを奪還し、シンハラ王朝の再建を果たします。その後、彼の孫にあたるバラークラマバーフ王はスリランカを再び統一し、ポロンナルワの整備を進めます。灌漑設備を充実させて生産力を増し、また仏教寺院を数多く建設したことで、ポロンナルワは仏教の聖域として国外にまで知られるようになります。

当時のポロンナルワ中心部に建設されたワタダーゲ(円形の仏塔)

ガル・ヴィラーハの座像

 しかし12世紀末にはシンハラ王朝は勢力を失い、13世紀初頭には南インドのカリンガ朝によってポロンナルワを奪われ、シンハラ王朝は南西のダンバデニヤへ都を移します。その後もカリンガ朝との攻防を続けますが、シンハラ王朝は徐々に勢力を失って弱体化し、南部の街へと何度も遷都を繰り返していきます。ポロンナルワは13世紀末には完全に放棄され、以降1900年代に発掘が進められるまでジャングルに埋もれることになりました。



5.       動乱期(13世紀末~1505年)


13世紀末にはセイロン島北端部のジャフナ半島にタミル人国家のジャフナ王国が成立し、14世紀半ばにはスリランカ南部にまで支配域を広めます。また、マルコポーロ、イブン・バットゥータがスリランカを訪れ記述を残したほか、明から鄭和が訪れています。

シンハラ王朝は鄭和の使節団の船を襲おうとしますが逆に王族を捕虜として捕らえられ、中国へ連行されます。明はその後王族をスリランカへ引き渡し、パラークラマ・バーフ6世を王として指定します。バラークラマ・バーフ6世は新たにコーッテ王国を建国、1450年にはジャフナ王国を支配下に置きスリランカを統一しますが、スリランカはその後30年間 明の朝貢国となりました。

また、1469年には別にウィクラマバーフがキャンディ王国を成立させており、コーッテ王国の支配下だったジャフナ王国も1479年に再び独立を果たします。後のポルトガル・オランダ・イギリスの植民地時代にはこのスリランカの3王国と侵略国との間での闘争が繰り広げられていきます。





 この後、1505年にポルトガルの商船がコロンボへ漂着し、コーッテ王国との協力体制のもと徐々にポルトガルの支配が全域に及んでいきます。ポルトガルの後もオランダ、イギリスと宗主国が変わるものの、スリランカは1948年のイギリスからの独立まで実に443年間という長期にわたって欧米諸国としての歴史を歩んでいきます。


Text by Okada

2020-05-29

スリランカ 4つの古都と世界遺産


新型コロナウイルスの影響で3月下旬よりロックダウンが続いていたスリランカですが、やっと5月23日に発表があり、5月26日より夜間(午後10時より翌午前4時)のみの外出禁止となり、またコロンボ県・ガンパハ県を除いて県をまたぐ移動も許可されるなど大幅に規制の緩和が始まってきました。


 海外からの旅行客の受け入れはまだ先になりますが、日本でも無事に海外旅行が解禁された暁には、また是非スリランカへの旅のご検討を頂ければ幸いです。また自由に旅行ができる日が戻ることを祈って、通常のブログ記事も改めて更新を続けて行きます。



スリランカ 4つの古都と世界遺産


 現在、合計8つの世界遺産が登録されているスリランカですが、そのうちの4つが当時のシンハラ王朝の都となった街でした。

スリランカの世界遺産(登録年)

文化遺産
聖地アヌラーダプラ(1982年)
古都ポロンナルワ(1982年)
古都シーギリヤ(1982年)
聖地キャンディ(1988年)
ゴールの旧市街と要塞(1988年)
ダンブッラの石窟寺院(1991年)

自然遺産
シンハラジャ森林保護区(1988年)
スリランカの中央高地 (2010年)


今回の記事ではシンハラ王朝の始まりからイギリス軍の侵略による王朝の終焉まで、都の変遷をもとにご紹介します。

1.       スリランカ最古の都:アヌラーダブラ

<世界遺産登録:1982年>
紀元前483年、シンハラ人の祖とされるヴィジャヤ王子がスリランカに上陸したとされています。その後紀元前3世紀にインドからアショカ王の王子:マヒンダが仏教を伝え、アヌラーダブラは仏教都市として栄えていきます。

その後、紀元後5世紀に一シギリヤに遷都されたものの都は再度アヌラーダブラへと戻され、11世紀まで長くシンハラ朝最初の都として機能しました。


アヌラーダブラのシンボル:ワンウェリ・サーヤ大塔

イスルムニヤ精舎本堂の涅槃仏






2.       シギリヤ

<世界遺産登録:1982年>

紀元後5世紀、シンハラ王朝のカッサバ王によって高さ195mの岩上に建造された王宮。シギリヤ・ロックとして、スリランカ随一の名所として知られますが、実際にこの都が利用されたのは僅か11年に過ぎませんでした。

カッサバ王は父王を殺害して王権を奪取しますが、平民出身の母親を持つカッサバ王は王族出身の母親を持つ弟:モッガラーナに王位を奪われることを恐れ都をアヌラーダブラからシギリヤへと移し、岩上に王宮を建設しました。

しかし11年後、インドに亡命していたモッガラーナに敗れたカッサバは自ら命を絶ち、シギリヤ王権は終焉を迎えます。モッガラーナはシギリヤを仏教僧へ寄進し、をアヌラーダブラへ戻します。その後シギリヤは14世紀頃まで修道院として存続するものの徐々に衰退し、キャンディ王国の治世の後に放棄されます。


シギリヤ・ロック

シギリヤ・レディのフレスコ画




3.       ポロンナルワ

<世界遺産登録:1982年>


1017年、スリランカは南インドのチョーラ朝の進行を受け古都アヌラーダブラを去ってポロンナルワへと遷都します。当時のシンハラ王ヴィジャヤバーフは灌漑設備の整備と仏教の布教に力を注ぎ、その意思を継いだ彼の孫:パラークラマ・バーフは巨大な貯水池:パラークラマ・サムドラを建設、また多くの寺院を建立し、ポロンナルワは仏教都市として名高い都市へ成長します。聖域として知られるようになったポロンナルワにははるばるタイやビルマからも仏教僧が訪れていました。

13世紀に入り再びチョーラ朝からのタミル人の侵入が激しくなり、シンハラ王朝は徐々に島の内陸部へと南下し、都も移り変わっていきます。その中でポロンナルワは放棄され、以降20世紀に発掘が進められるまでジャングルの中に埋もれることとなりました。


当時のポロンナルワの中心地に位置する円形の仏塔:ワタダーゲ


パラークラマ・バーフ一世の重厚なレンガ造りの宮殿跡。当時は7階建だったが現在は3階部分までが残存している。



4.       最後の都:キャンディ

<世界遺産登録:1988年>

チョーラ朝の侵攻によって南下を続けたシンハラ王朝は15世紀に入って都をキャンディに安定させます。山々に囲まれたキャンディは狭い盆地となっており、外敵の侵入を阻むためにも好都合な土地でした。その後、1815年にイギリス軍により滅ぼされるまでの300年以上にわたり最後の都として機能し、現在でも王権の象徴である仏の歯を擁する仏歯寺が置かれています。

スリランカの象徴でもあるこの仏歯を先頭に市内を回り歩くペラヘラ祭は6~7月に開催され、スリランカ最大の祭りとして盛大に祝われています。

仏歯を祀るキャンディ仏歯寺


1805年のポルトガルのコロンボ侵出から欧米列強の植民地支配をうけることとなったスリランカは、1796年よりイギリスの東インド会社の支配下となります。その後1802年にはイギリスの連邦直轄領となり、1815年のイギリス軍のキャンディ侵攻によって都は落とされ、シンハラ王朝は終焉を迎えました。

スリランカは第二次世界大戦を経て1948年にイギリス連邦内の自治領セイロンとして独立しますが、打ち捨てられていた古都は植民地時代から発見・研究が進められており、現在ではシンハラ王朝の遺産として世界的にも人気のある観光地となっています。



Text by Okada



2018-09-20

ポロンナルワの見どころ ベスト5!

アーユボワーン!!!

ネイチャー・エクスプローラー・ランカのカナルです。

少し前まではシギリヤヘ行かれる方の中、ミンネリヤ国立公園でサファリする方は多かったです。9月現在の時期はまだまだエレファントギャザリングが見えますが、シギリヤ訪問後、ポロンナルワヘ移動したいと多くの方からお問合せいただいております。

また、ミンネリヤ国立公園でサファリはしたいですが、1日サファリに過ごすのは時間がもったいないとのご意見もいただいております。
そのような方へは朝ポロンナルワを訪問され、その後ミンネリヤ国立公園にてサファリされるように、ご案内しております。

ポロンナルワでどれぐらいの時間が必要ですか。。
中には何が見えますか。。
効率よく回りたいので、ベスト見所を教えてください。。
短時間での観光は可能ですか。。などなど様々なお問合せされる方がいらっしゃいますので、本日はそのポロンナルワのベスト(私からのお勧め)を紹介させていただきます。

ポロンナルワはシギリヤから東約60キロ(専用車にて約1時間)、コロンボから北東約220キロ(専用車にて約5時間)の距離に位置します。
今より800年頃前までには経済的にスリランカの中心の街でした。
また、チョーラ王朝時代・シンハラ王朝時代の約3世紀はスリランカの首都の街でもありました。
現在でもその時代の城跡、たくさんのお寺や伝統的な建物がたくさん見えます。
その中で、本日は私からおすすめの5ヶ所を紹介いたします。
拡大なランカティラカ(この中には頭の取れた仏像が見られます)。
1.宮殿跡(The Royal Palace)
こちらはポロンナルワの中でも一番人気なアトラクションかもしれません。ポロンナルワの入り口から入ったら一番近い場所にもありますし、現在の建物がお城だった当時には7階建てであったと言われています。現在は3階建ての壁のみが残っています。当時は50部屋もある建物だった遺跡は現在も3mの厚い壁があり、その高さ(31mと言われます)も現代のように機械などがない時代に造られたものであり魅力的です。
その隣に閣議場があります。閣議場の壁はたくさんの象の彫刻があり、現在まで守られています。閣議場に上がる前に横から見ることができます。また、ここの階段も大きな2つのライオンに守られている門です。閣議場に上がったら王が座るライオンが彫かれている席を始め、当時の首相、大臣、将軍などが座る席があったと言われています。
当時は巨大なお城のイメージができる宮殿跡
2.クワドングル(The Sacred Quadrangle)
宮殿跡の集まりがある場所から北側にポロンナルワの遺跡群が集まっている場所ります。
これは、クワドングルと言われ、ポロンナルワ内でも美しい、魅力的な遺跡が残っています。その中にあるVatadageは大きい円形で、一番目立ちます。4つの入り口があり、中にも東西南北それぞれに向けている仏像が見えます。外側にガードストーン(このダーガバに悪魔が入らないように守るストーンと信じられている)とムーンストーン(人の誕生、高齢、病気、死のサイクルを表すもの:諸説あり)が注目的です。
その他もハタダーゲ(60時間で作られたと言われる当時2階の建物、一時ここに仏歯が置いてあったという人もいます。)、石の本のように見えるガルポタ、7階建てのサトゥマル・プラサーダ、小仏像なども魅力的です。

北口からと取られたワタダーゲ
3.ランコトゥ・ヴィハーラ(Rankot Vihara)
12世紀に造られたと言われているこのダーガバはポロンナルワの中では一番、スリランカの中でも4番目に大きい、55メートルの高さで迫力のあるダーバガです。12世紀に当時のニッサンカ・マーラ王(1187から1196までの王)により作られていると言われています。横にある登録にはこのダバーガを作られた際にニッサンカ・マーラ王が建築時に神様ヘの思いを込めてきちんと作られているかを定期的にチェックしていたと書かれています。スリランカの中にある、ランコトゥ・ヴィハーラより大きい3つ(すべてアヌラダプーラにある)と似ているともいわれていますが、すべてレンガで作られており、魅力的です。

ランコトゥ・ヴィハーラ
4.キリ・ヴィハーラ(Kiri Vihara)
ランコトゥ・ヴィハーラから北側に進みますと、ゴーパラ・パッバタやランカティラカがあり、その北側に真っ白なキリ・ヴィハーラダバーガがみることができます。シンハラ語で、「キリ」とはミルクという意味があります。一時期森の中になくなったと言われているポロンナルワを見つかった時に、キリ・ヴィハーラを確認すると、約700年前に塗られた白色(石灰から作られた色)がそのまま残っているのがわかりました。
こちらはパラークラマ・バーフ(Parakrama Bahu)の女王であったスバドラ(Subadhra)が建てた言われているこのダバーガはポロンナルワの中でも美しく守られたダバーガであります。
白色に塗られたキリ・ヴィハーラ
5.ガル・ヴィハーラ
ガル・ヴィハーラはポロンナルワで一番多くの人に訪問される遺跡であり、一枚の石(岩)に彫られた4つの仏像が見ることができ、人気なアトラクションです。
立象はブッダ―の一番人気な学生でもあったアナンダの仏象だと言われることもありますが、すべてが仏像であることが確認されています。ただし、7メートルでもある立象はこの中でも、一番きれいに造られているという人が多いです。ハスの台座にある立象の顔が悲しそうに見えます。目が半分閉じているように見えるこの姿はとても珍しいです。
寝姿に見える14メートルの仏像はブッダ―がニルヴァーナに入る際の仏像であり、スリランカの中でも多くの場所に見られる姿です。
また、人工的に造られた洞窟のような場所の中にインドやスリランカでもたくさん見える仏陀―の姿が見えています。

仏像が並ぶガル・ヴィハーラ
以上、ポロンナルワヘ行かれる方ヘ私からのお勧めの5ヶ所をご案内させていただきました。
ポロンナルワは広い観光地ですので、こちらに紹介していない場所もたくさんございますので、ご興味のある方は1日でも過ごせる見所があります。

弊社でもポロンナルワを含めたツアーを案内させていただいておりますので、是非ご確認ください。

■スリランカの文化遺産全6ヶ所を巡る!モデルプラン スリランカ周遊 7泊8日 ■

どうぞ、よろしくお願いいたします。

Text by Sanjib  Raj Khanal
Photo by Saiyu Travel