2020-08-21

スリランカの歴史⑦ポルトガル植民地時代


スリランカの歴史を辿る第7回。時代は16世紀に入り、欧米列強の植民地支配がスリランカを含め東南アジア世界に迫ってくる時代です。当初の目的はインドやスリランカ、東南アジアとの貿易ルートを掌握し、その利益を得ることでした。しかし結果的には訪問先の内政に干渉し、香辛料等の原産地を侵略し、直接支配を目指すようになっていきます。



1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)






■ポルトガルのスリランカ上陸

 14世紀末にスペインから独立したポルトガルでは絶対王政の確立が進み、そのもとで積極的な海外進出が進められました。1415年にはジブラルタル海峡を挟んだモロッコ北端の要衝セウタを攻略し、エンリケ航海王子のもと本格的に海外進出を始め、ここに大航海時代が始まります。


 地中海の向こう側のアフリカ大陸北岸のイスラーム領域を征服しながら、ポルトガルはアフリカ大陸を西回りに南下。1488年にはアフリカ最南端の喜望峰に達しています。その後1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達、1500年にはペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達するなど、ポルトガルの躍進が続きます。


 そして、1505年にはポルトガルの商船がスリランカのコロンボ港に漂着します。当時のスリランカはシンハラ系のコッテ、キャンディ、タミル系のジャフナの3王国が併存している状態でしたが、コロンボはコッテの支配域でした。コッテ王国はポルトガル船の大砲や銃器などの装備を警戒し、敵対を避けてポルトガルと和平条約を結びます。


 その後は大きな衝突もなく推移しますが、10年後の1515年にポルトガルは軍船を引き連れてコロンボに入港し、要塞の建設を始めます。コッテ王国はこれに抗議して軍を派遣しますが、ポルトガル軍の圧倒的な戦力の前では歯が立たず、実質的にポルトガル商船の自由な入港を認めることになりました。




■コッテ王国の分裂

 コッテ王国がポルトガルと友好関係を築こうとしたのは、当時のコッテの内政状態にも起因していました。国内では内紛が生じており、またキャンディやジャフナといった他勢力の脅威もあり、ポルトガルの軍事力を味方につけることで、これらに対して優位に立とうとする狙いがあったようです。


 しかし、1521年には当時のコッテ国王ヴィジャヤバーフ6世の治世で彼の息子たちによるクーデターが発生し、コッテは3人の王子によってコッテ王国シーターワカ王国ライガマ王国の3つに分割されます。長兄ブヴァイナカバーフ7世はコッテ王国を引き継ぎ、次兄マヤドゥンネのシーターワカ王国に対しての牽制として、ポルトガルとの協力関係を強化していきました。シーターワカ王国はコッテ王国に対抗しますが、ポルトガルに支えられたコッテ軍を破ることは難しく、路線を変更します。シーターワカ王国は、末弟のパララジャシンハの没後に彼が治めたライガマ王国を併合しています(1538年)。


1520年代のスリランカ勢力図。西部はコッテ、シーターワカ、ライガマの3国、
東部はキャンディ、北部はジャフナとワンニ族の勢力下にあった。
画像:Wikipedia (kingdom of Kotte)より引用



コッテ-ポルトガルの連合はスリランカ内での最強勢力となりましたが、これは同時にコッテ王国へのポルトガルの介入も推し進めました。1551年には国王ブヴァイナカバーフ7世がポルトガル兵によって射殺され、新たに孫のダルマパーラが王とされます。しかしダルマパーラはポルトガルの即位はポルトガルによって指定されたものであり、ポルトガルによるコッテ政権の支配は着実に進んでいきました。


 大航海時代の海外進出は、貿易とともにキリスト教の布教もその目的の一つでした。ポルトガルもその例にもれず、1557年にはダルマパーラ王がカトリックに改宗させられています。1560年にはヒンドゥー教国であるジャフナに対してカトリックへの改宗を強要し、これを拒否したジャフナへ進軍するなど、スリランカ全域に対して支配を強めていきます。コッテ王国含め、仏教徒であるシンハラ人に対しても布教活動が行われました。


 1565年にはコッテからコロンボの現在のフォート地区への遷都をダルマパーラに求め、また1571年からはゴールに城砦を建設するなど支配基盤の整備を進めます。さらに1580年には、ダルマパーラに対して自身の死後にコッテ王国をポルトガル国王へ譲ることを約束させています。その後1597年にはダルマパーラが死去し、コッテ王国がポルトガル国王へ寄贈されたことによってコッテ王国は終焉し、ポルトガルによる支配が完成することとなりました。シンハラ人王朝としての王権はキャンディ王国に引き継がれ、仏歯とともに都はキャンディに移ります。


コロンボの現在のフォート地区。金融関連の施設や商業施設が建ち並ぶ官庁街となっている



 コッテの征服に成功したポルトガルは、続いて島内の他の勢力への侵攻を強めます。1618年にはジャフナ王国でカトリック信者が反乱を起こし、ポルトガルはカトリック支援の名目でジャフナに侵攻します。ジャフナはこの時までに既にポルトガルの支配下にありましたが、この反乱を機にジャフナ最後の王であるカンキリ2世が1619年に処刑され、ジャフナ王国は滅亡、完全にポルトガルに掌握されることとなりました。



 コッテ王国とジャフナ王国をポルトガルが征服した結果、スリランカにはポルトガル対キャンディ王国という2大勢力が対峙する構図が残されました。ポルトガルはスリランカ完全征服を目指してキャンディ王国の侵攻に移り、1623年には東部の良港トリンコマリー、さらに1628年にはトリンコマリーから110㎞南の要衝バッティカロアの攻略に成功します。


トリンコマリーの港湾は世界で5番目に大きい天然港であり、支配権を巡って度々争われた
(画像:Google Map 航空写真より)



 劣勢に立ったキャンディ王国ですが、彼らはポルトガルと同じく東南アジアの香辛料貿易を目指していたオランダと結託してポルトガルに対抗します。トリンコマリーを失った後の1627年にはオランダ側からキャンディの王ラジャシンハ2世に使節を派遣しており、これを機にスリランカではポルトガル対キャンディ-オランダ連合という構図が生まれます。


 当時、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの4か国は東南アジアの香辛料の独占を目指して16世紀から激しい抗争を繰り広げていました。特にインドネシアのモルッカ諸島はナツメグの産地として非常に重要な地となります。

 16世紀に各地を制したポルトガルですが、後にスペインが参入し、16世紀後半からはイギリスも参入、1600年にはイギリス東インド会社を設立して基盤を固めます。この動きに刺激されたオランダは1602年にオランダ東インド会社を設立、その後ジャカルタを拠点としてモルッカ諸島の交易を支配し、莫大な利益を享受していきます。この争いはその目的からスパイス戦争と総称され、17世紀まで各地で抗争が続きます。


 スリランカはシナモンの産地として非常に重要な地であり、オランダはこの交易の独占のためにポルトガルの排除を目的としてキャンディ王国と協力関係を結んだのでした。この後、1638年にはラジャシンハ2世がキャンディを包囲したポルトガル軍を撃破、また同年にオランダはトリンコマリーとバッティカロアをポルトガルから奪い、キャンディ王国へ返還。2年後の1640年にはさらに南西部のゴールとニボンゴも攻略しています。


ゴールの城砦(1663年建設)にはオランダ東インド会社の「V.O.C」の紋章が描かれています



 次々に領地を失ったポルトガルは一旦オランダと和平条約を結びます。1645~1650年の間は和平が保たれましたが、徐々に関係は悪化し1656年にはオランダがポルトガルの本拠地コロンボを占領し、ポルトガル勢力はスリランカから一掃されました。


ポルトガル支配から解き放たれたスリランカですが、この後にオランダはキャンディ王国と対立し、徐々にオランダの支配が広がっていきます。以降、18世紀末までの約140年間、スリランカはキャンディ王国による抵抗が続きながらも、オランダの植民地としての歴史を歩んでいきます。



Text by Okada

 


2020-08-14

スリランカの歴史⑥動乱期

スリランカの歴史をご紹介する第6回、今回は13世紀末から15世紀末にかけての動乱の時代を取り上げます。


この時期はタミル人によるジャフナ王国が成立し、シンハラ人王朝と衝突を繰り広げました。シンハラ人王朝はジャフナ王国との攻防の中で島の中央部~西部にかけて何度も遷都を繰り返し、また内部抗争や分裂も激しくなります。さらに、マルコ・ポーロイブン・バットゥータの二人の探検家がスリランカを訪問し、中国の明から鄭和が訪れてシンハラの王を捕らえるなど、国際社会の影響を受け始めます。後に訪れる、欧米諸国の植民地時代への過渡期としても捉えられる時代です。



1.  スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)

2.  アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.  ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.  動乱期(13世紀末~1505年)

5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9. 内戦終結後~現代 (2009年~)



■ジャフナ王国の建国 ポロンナルワ時代から動乱期へ


前回の記事で紹介したヴィジャヤバーフ1世パラークラマバーフ1世ニッサンカ・マッラの3人の名君により黄金時代が築かれたポロンナルワですが、度重なる対外戦闘や公共事業により王国の財政は悪化し、次第にその力を失っていきます。


その中で、南インドからスリランカの北端部であるジャフナ半島へタミル人の入植が始まります。この動きを率いたのはカリンガ国出身と言われるカリンガ・マーガでした。カリンガ・マーガはジャフナ半島からスリランカへの侵攻を始め、1215年にはポロンナルワを占領します。その後はスリランカ北東部を支配下に置き、1258年からは南インドのパーンディヤ朝に従属しますが、1323年にはパーンディヤ朝の政治不安に乗じて独立を果たしました。以降はシンハラ人王朝と衝突を繰り返しますが、14世紀初頭から中頃にかけてはスリランカでの覇権を握るほどに発展していきます。



■シンハラ人王朝の度重なる遷都と興亡


ポロンナルワの王: ヴィジャヤバーフ3世はカリンガ・マーガの侵入を受けて約110㎞南西のダンバデニヤへ遷都します(ダンバデニヤ王国の成立)。さらに13世紀後半にはブヴァイナカバーフ1世によりダンデバニヤから約50㎞北東のヤパフワへ遷都。ここではシギリヤのように周囲の低地から突き出すように盛り上がった巨大な花崗岩の上に、要塞のように宮殿が置かれました。王権の象徴である仏歯もここに移されますが、ブヴァイナカバーフ1世の死後はタミル人国家の侵略を受け、仏歯も奪われています。


しかしその後、後継のパラークラマバーフ3世は1288年にポロンナルワと共に仏歯を奪還し、1293年までポロンナルワに都をおきます。ジャフナ王国の占領によって荒廃してしまった仏教寺院の整備に尽力しますが、この後も遷都は続き、実質的にはポロンナルワに都が置かれたのはこのパラークラマバーフ3世の時代が最後となりました。



パラクラーマバーフ3世によって建設されたランカティラカ (ポロンナルワ)



パラークラマバーフ6世の命で描かれたティワンカ・ピリマゲ寺院の壁画 (ポロンナルワ)



パラークラマバーフ3世の死後、3代にわたってクルネガラを都として統治が続きます。その後一度ダンデバニヤ、ヤパフワを経由し、1353年にはパラークラマバーフ5世によってさらに南下したガンポラに都が移され(ガンポラ王国の樹立)、後継のヴィクラマバーフ3世によって仏歯が奉納されました。



■アラケスワラ(アラガッコナラ)家の台頭


ガンポラに都が置かれたヴィクラマバーフ3世(1359-1374)の治世の時代に台頭し、後のスリランカ支配に関わることになったのがアラケスワラ家(又はアラガッコナラ家)です。この一族の祖となるニッサンカ・アラガッコナラは南インドの現タミル・ナードゥ州のカンチープラム出身の商人であり、13世紀初頭からスリランカに定着したと考えられています。


彼の孫:アラケスワラは、ヴィクラマバーフ3世に仕える大臣としてジャフナ王国に対抗し、現在のスリランカの首都:スリジャヤワルダナプラコッテの地に砦を築きます。この土地は2本の川が交わり沼地に囲まれた防衛に適した地で、「ジャヤワルダナ(勝利の地)」と呼ばれていましたが、この後に「コッテ(砦)」と呼ばれるようになりました。

スリランカは1985年から首都をコロンボからスリジャヤワルダナプラコッテへ変更していますが、その計画を主導したのが当時のジャヤワルダナ大統領でした。大統領はコッテの旧称と自分の名前が同じ「ジャヤワルダナ」であることにちなみ、新たな首都の名を「スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ(聖なる・勝利をもたらす・街・コッテ)」としたとされています。

ジャヤワルダナ大統領 画像出典:J.R. Jayewardene Centre



アラケスワラ
の死後は一族の中で権力を巡った争いが生じますが、アラケスワラ家は王族とも婚姻関係を築き、シンハラ人王朝の中で実権を握っていきます。ジャフナ王国や南インドのヴィジャヤナガル王国など、対外的にも防衛と侵攻を続けました。最終的にはヴィラ・アラケスワラが王権を手に入れ、彼は王名ヴィジャヤバーフ6世として、そしてアラケスワラ家の最期の王として1397年に即位します。



■鄭和艦隊の来島


当時のスリランカの状況を大きく変えた事件が鄭和の艦隊の来島でした。明の永楽帝の命で主に朝貢関係の樹立のために南海への航海を繰り返した鄭和艦隊は、そのすべての航海でスリランカを訪れています。永楽帝の意図としては航海は朝貢関係の樹立と明の示威行為としてのものであり、軍事的なものではありませんでしたが、寄港先の紛争への介入、また襲撃を受けた際の防衛のために兵士も多数乗船しており、実際に彼らが活躍する場面も少なくありませんでした。


鄭和の航路
画像出典:愛宕松男・寺田孝信『中国の歴史 第6巻 明・清』1974 講談社



ヴィラ・アラケスワラはスリランカにおける明の艦隊の存在を危険視していました。またコッテ政権は近隣海域での侵略や海賊行為を行っていたため、明としても手を焼いていたようです。お互いの緊張が高まる中、鄭和の第3回航海、1411年には明-コッテ戦争と呼ばれる衝突が生じます。


各国を巡り朝貢品を載せた鄭和艦隊がコロンボに停泊すると、ヴィラ・アラケスワラは艦隊の宝物を奪おうと奇襲を仕掛けます。鄭和艦隊は逆にこれを返り討ちにしてコッテに侵攻、ヴィラ・アラケスワラを始めアラケスワラ家と王族の人間を捕虜に取ります。捕虜となった王一行は永楽帝のもとに献上され王権を剥奪され、アラケスワラ家の時代は終焉を迎えました。


あくまで平和的な外交を意図していた永楽帝は捕虜の返還を約束しますが、スリランカを支配下に置くために自ら王を任命します。捕虜となった王族が次の王を選定し、明の権威の下で新たにパラクラーマバーフ6世が即位し、コッテ王国が成立します。鄭和艦隊の保護のもと1415年には都がコッテに移り、大陸の超大国の権威を得たパラクラーマバーフ6世は徐々に支配力を強め、1450年にはジャフナ王国も支配下に収めてスリランカ全土を統一しました。



■明による政権更新以降のスリランカ


パラクラーマバーフ6世はスリランカ全土を支配下に収めたものの、明に捕らえられたことでアラケスワラ家とコッテ政権の権威は失墜しており、各地で地方勢力が台頭していきます。1467年にはジャフナ王国が再びコッテ王国からの独立を果たし、真珠や象、シナモンなどの輸出で莫大な利益を得て発展していきます。またキャンディでは14世紀末からヴィクラマバーフ3世のもとで都市整備が進んでおり、ヴィラ・アラケスワラの退位を機に半独立国としての性格を強くしていました。1496年にはセナ・サムマタ・ヴィクラマバフが王として即位し、コッテ王国の支配のもとで発展していきます。


これ以降、スリランカではこのコッテ、キャンディ、ジャフナの3国が主体となり、欧米列強の干渉を受ける植民地時代へと向かっていきます。



Text by Okada


2020-08-07

スリランカの歴史⑤ ポロンナルワ時代

 スリランカの歴史を紹介する第5回。今回はポロンナルワ時代をご紹介します。


ポロンナルワはスリランカ中央部に位置し、従来の都アヌラーダプラから南東に約80㎞離れた町です。チョーラ朝によってアヌラーダプラが占拠されたため、よりチョーラ朝の影響の及びにくい南方の代替の都として発展していきます。


1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)








■ヴィジャヤバーフ1世の治世


11世紀初頭は南インドのタミル人国家チョーラ朝がラージャラージャ1世、そしてその後継であるラージェンドラ1世の治世で最盛期を迎え、スリランカもその支配のもとに組み込まれます。しかし1055年、スリランカでシンハラ人の王ヴィジャヤバーフ1世はチョーラ朝に対しての抵抗運動を開始し、1070年にチョーラ朝の内政抗争の隙をついて蜂起、1073年にはポロンナルワを奪還します。この際には同じく南インドのタミル人国家ですが、チョーラ朝に敵対していたパンディーヤ朝、またスリランカと同じくチョーラ朝の支配下にあったミャンマーのビルマ人王朝:パガン朝などからの支援もあったようです。


ヴィジャヤバーフ1世は南部のルフナ王国の出身です。スリランカはこれまで大きく3つの地域勢力に分かれており、北部のラジャ王国、南部のルフナ王国、コロンボ周辺のダッキナデサ王国がそれぞれ存在していました。アヌラーダプラやポロンナルワを擁し最大の勢力だったのが島の中央部から北部沿岸までを支配域としたラジャ王国で、これまでのシンハラ人王朝でも他の2勢力に対して支配的な立場にあった勢力です。ヴィジャヤバーフ1世はまず南部の自国ルフナ王国からチョーラ朝の勢力を追放し、徐々に北上してシンハラ人の支配域を奪還していきました。


ヴィジャヤバーフ1世はポロンナルワ王国の国王として即位し、都のポロンナルワは王の名から「ヴィジャヤラジャプラ」と改称されました。その後、ヴィジャヤバーフ1世は国の再興を目指して尽力します。およそ1世紀に渡って従来の都アヌラーダプラを占拠されていた間に、スリランカからは仏教僧が減り、仏教の信仰自体が衰退していました。ヴィジャヤバーフ1世はミャンマーのパガン朝から僧を招き、仏教国としての再建を目指します。また、聖地であるスリ・パダ(スリランカ最高峰のアダムス・ピーク)への巡礼の道を整備し、巡礼路の街の整備も進めて行きます。さらに、新たな貯水池を建設し、灌漑システムを再構築するなど大規模な公共事業を行い、首都の整備も進めて行きます。


ヴィジャヤバーフ1世の建設したアタダーゲ。王権の象徴である仏歯を祀った寺院跡です。



ヴィジャヤバーフ1世は1110年に亡くなるまでの55年間、ポロンナルワの王として君臨し、老齢になるまでの長い支配にちなんで「マハー・ヴィジャヤバーフ」(偉大なるヴィジャヤバーフ)と呼ばれます。現在のスリランカ陸軍の歩兵隊はこの偉大な王の名をとって「Vijayabahu Infantry Regiment」(ヴィジャヤバーフ歩兵連隊)と名付けられています。


この時代はラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力はポロンナルワ王国の下に統治されていましたが、ヴィジャヤバーフ1世の死後はまた王権を巡って3勢力間の抗争が続きます。



■パラークラマバーフ1世の治世

ヴィクラマバーフ1世の死後は彼の兄弟や息子たちの治世が続き、またラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力が王権を巡って争う状況が続きました。その中で、3勢力の権力を掌握しスリランカ全島を支配下に置いたのがヴィジャヤバーフ1世の孫、パラークラマバーフ1世です。


パラークラマバーフ1世はコロンボ周辺の勢力、ダッキナデサの王家の出身です。叔父から王位を継いだパラークラマバーフ1世はガジャ国の王ガジャバーフを破ってポロンナルワを獲得し、またガジャ国と同盟を組んでいたルフナ国勢力による攻撃を退け、1153年にスリランカ島の全権を掌握するに至ります。ポロンナルワを都としたパラークラマバーフ1世は、ヴィジャヤバーフ1世と同様に仏教寺院や灌漑設備の建設を進め、33年間の治世の間にポロンナルワは大きく発展していきます。


パラークラマバーフ1世の建設した貯水池はパラクラマサムドラとして知られ、従来からあった貯水池を拡充し、さらに新たな貯水池を追加したものです。面積22㎢に及ぶ巨大な貯水池は現在でも貴重な水源として利用されています。また、ポロンナルワ宮殿ガル・ヴィハーラ等、ポロンナルワに残る遺跡の多くもパラークラマバーフ1世の治世で建設されたものです。彼自身の石像と呼ばれるレリーフも残されています。


パラークラマバーフ1世と伝えられる石像(モデルについては他諸説あり)



ポロンナルワ王宮跡

ガル・ヴィハーラの仏像



また、パラークラマバーフ1世は周辺諸国に対しても影響力を増していきます。友好関係にあったミャンマーのパガン朝でシンハラ人の使者を捕らえたことに抗議して軍を派遣し、また南インドのタミル人に対しても牽制措置をとっています。アダムス・ブリッジのあるポーク海峡を隔ててスリランカと接するラメスワラムにシンハラ人の街を建設し、チョーラ朝パンディヤ朝といった南インドの国家に対してある程度の支配力を維持していました。


また、仏教を通しての周辺諸国との交流も密接で、ポロンナルワには度々タイ、ミャンマー、カンボジア等から仏教僧が訪れていたこともわかっています。トゥマハル・プラサーダはタイの上座部仏教の寺院に類似した仏塔で、タイからの僧、建築士によって建てられたものと考えらえています。


トゥマハル・プラサーダ


ポロンナルワ王国の下でのスリランカの統一、またその統治下での文化の興隆から名君として知られるパラークラマバーフ1世ですが、度重なる遠征や公共事業のために大量の資金を費やし、また国民にも重い税を課しており、国家としての財政状況は芳しくなかったようです。後の統治者であるニッサンカ・マッラの治世では、最も民衆の支持を受けた政策はあまりにも高すぎる税率の引き下げだったそうです。


しかしパラークラマバーフ1世の人気は絶大なもので、次の400年の間にはパラークラマバーフ1世の名を自身の名に採用する君主が7人以上存在していたと伝えられています。また、現在のスリランカ海軍の船にもパラークラマバーフ1世にちなんで名づけられた2隻の軍船が存在しています。



■ニッサンカ・マッラの治世

パラークラマバーフ1世の死後は従弟のヴィジャヤバーフ2世が王権を引き継ぎます。そしてこのヴィジャヤバーフ2世が副王として選んだのがニッサンカ・マッラでした。


ニッサンカ・マッラはスリランカではなく、インドのカリンガ国の出身です。カリンガ国はシンハラ人の祖:ヴィジャヤ王のルーツとなる地であり、ニッサンカ・マッラ自身もヴィジャヤの血を継ぐ者として王権を持つと考えられました。副王としてスリランカに招かれたニッサンカ・マッラはヴィジャヤバーフ2世の王権を継ぐはずでしたが、ヴィジャヤバーフ2世はニッサンカ・マッラと同じくカリンガ国出身のマヒンダ6世によって殺害され、マヒンダ6世が王権を強奪します。


しかしその僅か6日後にニッサンカ・マッラはマヒンダ6世を粛正、ポロンナルワの王として即位します。ニッサンカ・マッラはパラークラマバーフ1世の意思を継ぎ多くの仏教寺院を建設、また貯水池など灌漑設備の拡充に努めました。ポロンナルワに残るランコトゥ・ヴィハーラニッサンカ・ラタ・マンダパヤハタダーゲなどの建築は彼の治世で建設されたものです。また、ミャンマーのパガン朝やカンボジアなどの遠隔地とも良好な関係を築き、南インドに対しても牽制を続けるなど対外政策にも優れた政策を行っていました。カリンガ国出身の王という異色の出自でしたが、人徳のある王として称えられたと伝えられています。

ポロンナルワ最大の仏塔:ランコトゥ・ヴィハーラ


ニッサンカ・マッラが僧の読経を聞いていたというラタ・マンダパヤ



王宮内のニッサンカ・マッラの沐浴場








■ポロンナルワ王国 黄金時代の終焉


民への重税の緩和もあり人気の高かったニッサンカ・マッラですが、パラークラマバーフ1世と同じく多くの公共事業を行ったため、次第に国の資金は枯渇していきました。黄金時代とも呼べるポロンナルワ王国はニッサンカ・マッラの死後急激に弱体化し、再び南インドのタミル人国家による侵入を受けていきます。


1200年にはスリランカ島北端のジャフナ半島にタミル人の入植がはじまり、後の1300年にはタミル人国家ジャフナ王国が建国されます。また、カリンガ国出身のタミル人:マーガ王がジャフナ半島からスリランカへ侵攻し、1215年にはポロンナルワを占領しています。シンハラ人は王権の象徴である仏歯をポロンナルワから持ち出し、以降はスリランカの南部へと遷都を繰り返していくこととなりました。


マーガ王はその後シンハラ人のヴィジャヤバーフ3世の抵抗運動によって廃され、1287年にはシンハラ人によってポロンナルワが奪還されました。しかし1293年にヴィジャヤバーフ3世の治世が終わった後にポロンナルワは放棄され、1900年代のイギリス統治下で発掘が始まるまでジャングルに埋もれることになります。


ポロンナルワ王国の終焉の後、スリランカでは小国シンハラ人とタミル人の各国家が併存する動乱期に入っていきます。



Text by Okada










2020-07-31

スリランカの歴史④ アヌラーダプラ時代

スリランカの歴史を辿る第3回。今回は、アヌラーダブラに都を移した後、スリランカ全土に対して支配力を持つようになった時代として、アヌラーダプラ時代についてご紹介します。

アヌラーダプラは古くからの都、そして仏教聖地として1982年に世界遺産に登録されており、スリランカの主要な観光地となっています。また周辺の観光地へのアクセスも良いため、北部スリランカの観光の拠点としても利用される街です。

1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.動乱期(13世紀末~1505年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)



■ドゥッタガマニ王によるアヌラーダプラの奪回


紀元前437年にパンドゥカバハヤによって都が開かれ繁栄を誇ったアヌラーダブラですが、紀元前3世紀から南インドのタミル人国家による侵入を受け始め、紀元前3世紀末にはアヌラーダプラを占領されます。その後44年間にわたってアヌラーダプラを占領したチョーラ朝のエララという人物は、後に彼を打倒するシンハラの王:ドゥッタガマニの宿敵としてマハーワンサ(古代スリランカの歴史と伝説を記した物語)にも登場しています。

紀元前161年、シンハラ人の王ドゥッタガマニはエララを退けてアヌラーダプラを奪還します。ドゥッタガマニは英雄的な存在として語られ、再建を遂げたアヌラーダプラ王国はスリランカ史上初めてスリランカ全土に対して支配的な影響力を持つようになりました。

ドゥッタガマニは仏教の再興にも尽力し、アヌラーダプラにも多くの仏教寺院を建設します。中でも最大規模のものがルワンウェリサーヤ仏塔で、これには仏陀の托鉢が埋葬されていると言われています。ドゥッタガマニ自身がこの建設を監督し、完成の際にはインドからも様々な地域の代表団が訪問したと伝えられています。高さ90m、直径91mの巨大な仏塔は現在でもアヌラーダプラのシンボルとなっています。

ルワンウェリサーヤ仏塔


しかし英雄ドゥッタガマニの跡を継いだワラガムバーフ王は再びタミル人国家の侵略を受けて王位を剥奪され、以降再びタミル人国家による支配が続きます。シンハラ人王朝が都を奪還するのは紀元後3世紀に入ったころで、これを指揮したマハーセーナ王は数多くの灌漑用貯水池や運河を建設したことでも知られています。しかし王国は一時安定したものの、これ以降も継続的にタミル人国家との攻防が続き、何度もアヌラーダプラの占領と奪回を繰り返していくことになります。



■王都シギリヤとカッサパ王


タミル人による占領期を除いて基本的にはアヌラーダプラに都がおかれましたが、途中で都が移されたのがスリランカの観光地の中でも随一の人気を誇るシギリヤです。遷都を断行したカッサパ王の物語はよく知られています。

紀元後5世紀、タミル人に占領されていたアヌラーダブラを奪還したのがカッサパ王の父であるダートゥセーナでした。ダートゥセーナにはカッサパとその弟モッガラーナという2人の王位継承権を持つ息子がいましたが、2人は母親が違い、カッサパの母は平民の出身、モッガラーナの母は王族の出身でした。カッサパはこれによって自分に王位が継承されないことを憂い、477年にクーデターを起こしてダートゥセーナを監禁、強権的に王位を継承します。それに続き、王位を奪われることを恐れて弟のモッガラーナの殺害をもくろみますが、モッガラーナは危機を察知して南インドへ亡命していました。

古くからの都アヌラーダブラでは先王ダートゥセーナ派の力が強かったため、攻撃を恐れたカッサパは新たな都としてシギリヤを選び、シギリヤロックの岩上に7年の歳月を費やして王宮を建設します。その後、シギリヤの都はカッサパの治世の終わる495年まで存続しました。


都が置かれたシギリヤ・ロック

岩上からの風景と王宮跡


カッサパの弟モッガラーナは南インドから王権奪取のためにシギリヤに侵攻。カッサパはこの際に自害し、王権はモッガラーナへ移り、モッガラーナによってシギリヤの都は廃され、再びアヌラーダプラへと都が戻りました。シギリヤは仏教僧へ寄進されることになり、その後13~14世紀までは修道院として機能していましたが、以降はキャンディ王国による利用の記録が残るのみです。長く忘れ去られていたシギリヤの都は、その後1887年にイギリス人によって岩壁に描かれたシギリヤ・レディが発見されたことを契機に発見され、現在ではスリランカを代表する名跡として知られるようになりました。

シギリヤ発見の契機となったフレスコ画 シギリヤ・レディ



■ポロンナルワへの遷都


491年にモッガラーナによって再び都がおかれたアヌラーダプラは繁栄を迎えますが、やはり継続して南インドのタミル系諸国、パーンディヤ朝チョーラ朝からの侵攻を受けていました。度重なる侵攻を受け、769年には南東へ約80㎞離れたポロンナルワへと遷都します。チョーラ朝はその後993年にはアヌラーダプラを占領して支配下に置き、さらに1017年にはチョーラ朝のラージャラージャ1世によってシンハラ人のマヒンダ王が捕らえられ、その代わりとしてタミル人の総督を置くことでポロンナルワとスリランカ全域を支配下に収めました。

チョーラ朝のラージャラージャ1世は南インドで抗争を続けていたパーンディヤ朝を破り、また同じく南インドのケララ、またスリランカ、モルディブにまで支配力を広げ、チョーラ朝最盛期の礎を作った英傑と称えられる人物であり、その名も「王の中の王」を意味します。ラージャラージャ1世がチョーラ朝の都:タンジャブールに7年間かけて建設したブリハディーシュワラ寺院はドラヴィダ建築の最高峰とも呼ばれ、当時のチョーラ朝の繁栄を見ることができます。

南インド、タンジャブールのブリハディーシュワラ寺院


彼の息子として王位を継いだラージェンドラ1世の時代にチョーラ朝は最盛期を迎え、11世紀初頭にはさらなる領土拡大のために北インドのガンジス川流域やスマトラ島まで遠征をするに至っています。


しかし、シンハラ人王朝では1055年にヴィジャヤバーフ王がチョーラ朝支配に対しての蜂起運動を開始。1070年にチョーラ朝の王位が空位になった際の内政不安に乗じて反乱を起こし、チョーラ朝勢力の大半をスリランカから追放します。勢力を盛り返したシンハラ人側は1073年にポロンナルワを奪還し、ヴィジャヤバーフ王はチョーラ朝占領の間に廃れていた仏教の再興のために尽力します。

この後、ヴィジャヤバーフ王の孫:バラークラマバーフ王の時代にスリランカは再びシンハラ人王権の下に統一され、ポロンナルワは仏教聖地として国際的にも存在感のある都へと成長していくことになります。


Text by Okada

2020-07-17

スリランカの歴史③スリランカ建国神話 先アヌラーダプラ時代


 スリランカの歴史をご紹介する第3回、今まで通史の概要をご紹介してきましたが、今回から各時代に焦点を当ててみていきます。まずはスリランカの建国神話に関する時代から見ていきましょう。特に時代の名称があるわけではありませんが、ここではこの後に長く都がおかれて続いていくアヌラーダプラ時代に先んじる時代ということで、先アヌラーダプラ時代としてご紹介します。

1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.動乱期(13世紀末~1505年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)



■スリランカ建国神話


スリランカにはもともと土着の人々が暮らしていましたが、スリランカの歴史は通史での多数派であるシンハラ人の立場で語られるため、シンハラ人王朝の成立からがスリランカの歴史として語られています。スリランカでのシンハラ王朝の成立はヴィジャヤ王子という人物から始まっており、これの真偽は明らかではありませんが、まずはヴィジャヤ王子に関わる伝説から辿っていきます。

 後にシンハラ人の祖となるヴィジャヤ王子はもともとインドからやってきたと言われています。インドのヴァンガ国(現在のベンガル周辺)の王とカリンガ国(現在のオリッサ周辺)の姫が結婚し、娘スッパデビが生まれます。成長したスッパデビはライオンとの間に子を設け、男児シンバーフとその妹シンハシアヴァリが生まれました。2人の子は後に結婚して32人の子どもを設け、この長男がウィジャヤ王子です。

 シンバーフは現在のグジャラート(又はオリッサ)にシンハプラ王国を建国し、成長したヴィジャヤ王子は自らの信者や従者総勢700人とともに新天地としてスリランカへ上陸します。伝説では仏陀の命日に初めてスリランカの地を踏んだとも言われていますが、上陸は紀元前483年と伝えられています(※実際の上陸は543年頃など、他諸説あり)。

 スリランカ上陸後のヴィジャヤ王子は、土着のヤッカス族・ナーガ族を従属させてヤッカス族の女王クヴェニと結婚し、スリランカ中部西海岸(現在のチラウ周辺)にタンバパニ王国を建国します。ウィジャヤとその従者たちの子孫がシンハラ人となるため、スリランカではヴィジャヤがシンハラ人の祖であり、この王国がスリランカ初のシンハラ人王朝として伝えられています。

女王クヴェニに関係すると言われるウィルパットゥ国立公園内の遺跡。まだ詳細な調査は行われていません。


 ヴィジャヤは晩年に弟のスミッタに王権を譲ろうとしますが、スミッタもまた高齢であったため、スミッタは自身の息子パンドゥワスに王権を譲ります。しかしパンドゥワスはインドで既に自身の王国の王を務めていたため、彼が代わりの王をたててスリランカへやってくるまではウィジャヤの側近であったウパティッサが王を務めます。ウパティッサは紀元前505年に都を移してウパティッサ・ヌワラ(ウパティッサの都の意、現在のマンナル周辺)を建国し、パンドゥワスの到着までの短い間でしたが、摂政として王権を引き継ぎました。

 翌 紀元前504年にはパンドゥワスがスリランカへ上陸、新しく都をパンドゥワス・ラタ(パンドゥワスの地)と改め、シンハラ人の王として正式に王権を引き継ぎました。その後、王権は彼の子のアブハヤ、アブハヤの弟ティッサへと引き継がれます。ティッサは彼の甥であるパンドゥカバハヤ王によって倒され、パンドゥカバハヤ王はその後長く都となるアヌラーダプラの都を建設しました。


ヴィジャヤに関する記述はかなり時代が下った後の紀元後5世紀ごろまでに編纂された『マハーワンサ(大王統史)』によるものですが、記述は伝説的に語られる部分が多く、史実としての信憑性は低いと考えられています。ヴィジャヤの出自はインドのアーリヤ系であり、仏陀の命日にスリランカへ上陸した、というストーリーは、おそらく既に仏教大国となっていた当時のシンハラ人王朝のルーツに神話的な正当性を付与するためのものであったという説です。とはいえ現在でも、スリランカの原点はヴィジャヤにある、というのは
一般的な考えとしてスリランカの人々に受容されています。



■王都アヌラーダプラの建設とタミル人の侵入


 パンドゥカバハヤは新たな都として紀元前437年にアヌラーダプラを建設し、従来の王権を引き継いでラジャ・ラタ(王の国の意)王国を建国します。彼は名君として知られ、王国の区画の整理や都での貯水池の建設など、王国としての整備を推し進めました。彼の生誕には、生まれる前から叔父たちに殺される予定にあること、それを避けるために母親によって村の牧畜民の子と交換され牧童として育つこと、後に叔父たちを倒して王となることなど、インドのクリシュナ神の神話を彷彿とさせるストーリーが残っており、シンハラ人の英雄として少なからず神格化されていたと考えられています。

 パンドゥカバハヤの後もアヌラーダプラの繁栄は続き、紀元前250年にはインドのアショカ王の子:マヒンダが使者としてスリランカを訪れ、仏教を伝えています。当時のティッサ王は仏教に帰依し、マヒンダのためにマハーヴィーラ(大寺)を建設しました。ここから王権と仏教は密接に結びつき、仏教は国家宗教としてシンハラ人の間で熱心に信仰されるようになります。各地にも仏教寺院が建立され、特にアヌラーダプラは仏教の一大センターとして繁栄します。

紀元前3世紀にインドのブッダガヤの菩提樹の分木がティッサ王によって植樹されたもの。
アヌラーダプラは現在も仏教聖地として多くの巡礼者が訪れます。


 しかしアヌラーダプラの政権が強固になると同時期に、南インドからのタミル人の侵入が激しくなり、シンハラ人王朝と衝突し始めます。アヌラーダプラは度々タミル人に数十年間という長期間の占領を受け、以降スリランカの歴史を通してシンハラ人と対立していきます。シンハラ人がアヌラーダプラを奪回するのは後の紀元前161年、ドゥッタガマーニー王によるものでした。

 ドゥッタガマーニーは当時いくつか存在していたスリランカ内のシンハラ人王国に対して支配的な存在となり、スリランカを始めて統一した王として、ヴィジャヤ以来の偉大な王として伝えられています。彼の治世以降、本格的にアヌラーダプラを都とする時代が続いていきます。


Text by Okada

 

2020-07-10

スリランカの歴史②スリランカ通史概説 後編



 スリランカの歴史紹介の第2回。今回は通史概説後編と題して、植民地時代から独立後の内戦期、そして現代に至るまでの道のりを辿っていきます。

(前回の記事の範囲)
1.       スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161)
2.       アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073)
3.       ポロンナルワ時代 (1073~13世紀末)
4.       動乱期(13世紀末~1505)

今回紹介する範囲
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)



5.       ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658)


当時、ポルトガルは東南アジアの香辛料貿易の開拓を進めており、南インドのケララ地方、またスリランカで算出するシナモンを入手することも目標の一つでした。そんな中1505年にポルトガルの商船がコロンボへ漂着します。

 ポルトガルの船の大砲や銃などの武器を警戒したコーッテ王国はこれを警戒してポルトガルと和平条約を結びます。そして10年後の1515年、ポルトガルは軍艦を率いて再びコロンボへ上陸し、勝手に要塞を建設し始めます。コーッテ王国はこれに異を唱えて軍を率いて抗議しますが、ポルトガルの兵力にかなわず敗退し、実質的に今後のポルトガル商船の自由な出入りを認めることになります。

 コーッテ王国がポルトガルと友好関係を築いたのには、当時王国内で起こっていた内紛を治めるための軍事力を得るためという目的もありました。しかし結果的にはこれがポルトガルへの依存を高め、コーッテ王国の求心力を失うことに繋がってしまいます。1521年にはコーッテ王国の国王が暗殺され、王国はコーッテ/シータワカ/ライガマの3つに分裂しました。

分裂後のコーッテ王国では国王がポルトガルによって指名されたり、その国王がカトリックへ改宗させられたりと徐々にポルトガルの干渉が激しくなっていきます。1571年にはゴールへ要塞を築いて本拠地とし、また1580年にはコーッテ国王に対して、「自分が亡くなった後はランカ島をポルトガル国王へ譲る」と宣言させています。

1859年にポルトガルが砦を築いたゴールの街(写真:ゴール灯台)



 コーッテ王国のほかに対しても、カトリックへの改宗を拒否したタミル人国家のジャフナ王国へ進軍したり、キャンディ王国へ進軍したりとスリランカ全土の支配へ向けて版図を広げていきます。


 1597年、コーッテ王国のダルマパーラ王が死去し、シンハラ王朝としての王権はキャンディ王国に引き継がれます。ちょうどこのころに新たにオランダがスリランカへ進出しており、キャンディ王国は17世紀前半からはオランダと協力してポルトガルの侵略に対抗します。

 ポルトガルはキャンディ王国からトリンコマリーやバッティカロアなどの地方を略奪しますが、都のキャンディではキャンディ王国に敗退し、またその後オランダにトリンコマリーとバッティカロアを奪われ、キャンディ王国に返還させられています。オランダが相手となると分が悪いことを悟ったポルトガルは1645年にオランダとの和平条約を締結。一時安寧の時代が流れますが、1656年にポルトガルが支配していたコロンボをオランダが奪取し、拠点を失ったポルトガルはスリランカから追放されます。
 オランダ植民地時代の始まりです。


6.       オランダ植民地時代 (1658年〜1796)


キャンディ王国と協力体制をとっていたオランダですが、ポルトガルという強敵がいなくなった後は着実に侵略者としてのスリランカ支配を進めていきます。キャンディ王国からトリンコマリーとバッティカロアを奪取した他、ジャフナ王国も支配下に収めました。

その後一旦キャンディ王国との休戦協定を結ぶものの、1766年の和平条約はキャンディ以外の多くの地域をオランダに譲るという屈辱的なものであり、実質的なオランダの支配を意味するものでした。

キャンディの仏歯寺には王権の象徴である仏歯が祀られています
ゴールのオランダ教会。現代に残る世界遺産フォート地区は主にオランダ占領期に形成された


オランダは当時、世界初の株式会社であるオランダ東インド会社を設立し、南・東南アジアの香辛料貿易を独占することで莫大な利益を得ていました。決定的な出来事は1623年のアンボイナ事件です。これはクローブなどの産地であるインドネシアのアンボイナ島でオランダがイギリス商館を襲い、イギリス勢力を一掃してオランダ支配を確立した事件でした。

イギリスはこれを理由として東南アジア進出を断念しインド進出へ路線を変えますが、これはイギリスの反オランダ感情を大いに煽る事件でもありました。イギリスはこの後、1795年よりスリランカにて再びオランダと抗争を始め、重要地域を次々と攻略して1796年にはオランダ勢力をスリランカより一掃します。



7.       イギリス植民地時代(1796年~1948年)


1802年、オランダは正式にスリランカをイギリスへ割譲。イギリスによる植民地支配が本格的にスタートします。1815年にはキャンディ王国内での内乱に乗じてキャンディに進軍し、2400年以上にわたって続いたシンハラ王朝を断絶させ、スリランカの完全統治を果たしました。

 その後、植民地としての行政・司法・議会などの整備を進めると同時にコーヒーのプランテーションを本格化させ、南インドから大量のタミル人を労働力として移住させました(これが後の民族問題へも発展します)1870年には病害で壊滅したコーヒーに代わり当時インドで成功しつつあった紅茶のプランテーションをスリランカで開始しています。

スリランカを代表する品目となったセイロンティーの収穫風景(ヌワラエリヤ)


 その後も植民地支配の土台として行政整備を進めますが、「少数派のタミル人(ヒンドゥー教徒)を行政幹部として重用することで多数派のシンハラ人(仏教徒)との間に軋轢を生じさせ民族対立を煽り、スリランカとしての英国からの独立運動の発展を避ける」という分割統治は後の凄惨な内戦の原因となりました。


しかし第一次・第二次世界大戦中にシンハラ派・タミル派ともに独立を望む民族運動が徐々に発展していきます。第二次世界大戦後の1948年、ついにスリランカはイギリス連邦内の自治領として独立し152年に及ぶイギリス支配を脱しますが、イギリスという圧倒的支配が除かれた結果、興隆したそれぞれの民族意識は内戦として噴出することになってしまいます。


8.       スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)


スリランカ内戦についてはまた改めて記事として紹介しますが、ここでは概要のみ確認します。

スリランカ国内にはシンハラ人(74:主に仏教徒)・タミル人(18%:主にヒンドゥー教徒)、スリランカ・ムーア人など多くの民族が暮らしますが、イギリスの分割統治の結果としてシンハラ人は貧しく、タミル人は高い教育を受けて所得が高いという状況がありました。

状況が大きく変わったのは1956年のバンダラナイケ政権からです。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」を掲げて選挙で圧勝し、シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策など急進的な政治を進め、タミル人の反発を招きます。この年から各地でシンハラ人とタミル人の間の衝突が頻発していきました。

その後もシンハラ人優遇政策は続き、少数派であるタミル人への圧迫が激しくなります。タミル人側では後の「タミル・イスラームの虎(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Ealam)」の前身となる過激派組織が結成され、1983年以降は政府軍との全面的な戦争状態へ発展します。また、タミル人難民のカナダ等北米、欧州、アジア各国への避難も進んでいきます。

画像出典:外務省:スリランカ内戦の終結~シンハラ人とタミル人の和解に向けて


 状況が再び変わるのは2002年、中東和平などでも活躍したノルウェーの駐安芸で政府側とLTTEの間に一時停戦合意が成立します。その後も6回の和平交渉が行われますが、2005年のラージャパクサ大統領就任後に再び状況が悪化、2008年には停戦合意が正式に失効します。

 タミル人側は国際社会への呼びかけと協力要請を続けますが、スリランカ政府軍はその間も徐々にLTTEの拠点を攻略して行きます。そして2009519日、LTTEのプラバーカラン議長の死亡を確認したことで内戦の終結が宣言されました。平和的解決ではなく、スリランカ政府軍の勝利によって解決の形をとった内戦では7万人以上の死者が記録されています。



9.       内戦終結後~現代 (2009年~)


ラージャパクサ大統領は、すべての国民に受け入れ可能な政治解決に取り組んでいくことを表明しています。現在も約28万人のタミル人難民がスリランカ国内に存在し、不衛生な難民キャンプでの生活を強いられています。また内戦で破壊されたインフラの復旧や地雷の撤去など多くの課題が残されており、両民族の軋轢も解消の途上にあります。

 しかし内戦後、スリランカは平和の上の経済成長を遂げていきます。コロンボには海外資本の企業も参入し、自由に訪問ができることになったことで観光業も発展、多くの観光客が訪れる魅力的な観光国となっています。


 昨年2019年にはイスラム過激派による同時多発テロが発生し、邦人1名を含む250人以上が亡くなるという痛ましい事件がありました。その後厳重な警備の下で観光客数は戻りつつありましたが、現在は新型コロナウイルスの影響で再び観光業は大きな打撃を受けています。1日も早く、スリランカを含め国際的な状況が回復することを願っています。


Text by Okada

2020-07-03

スリランカにおける新型コロナウイルスの影響について(7月3日更新)

いつもネイチャー・エクスプローラー・ランカをご利用いただき、誠にありがとうございます。


現在、新型コロナウイルス感染拡大の予防措置として、外国人旅行者のスリランカへの渡航が制限されております。

スリランカ政府からの発表と弊社の対応について、下記の通りご案内いたします。


スリランカ政府による外国人の入国受け入れの再開は2020年8月1日からと告知されていましたが、
先日、再開の延期が発表されました。正式な日付は発表されていませんが、15日間程度の延期となる見込みです。
受け入れ再開に向けたガイドラインは下記の通り発表されていますので、ご確認ください。

●スリランカでは、2020年8月(正式な日付は未発表)より個人・団体を含め全ての外国人の入国受け入れを再開します。

●入国の受け入れを予定している国際空港は下記の3空港となります。
 ・マッタラ・ラージャパクサ国際空港
 ・バンダラナイケ国際空港
 ・コロンボ ラトゥマラナ空港

●現在、査証の発給は停止されていますが、新たに30日間有効・最大6か月まで延長可能なE-ビザ(ETA)の発給再開が予定されています。

発給の再開開始時期は未発表です。査証取得のためには、下記のものが必要となります。
 ・指定宿泊施設への予約証明書
 ・スリランカでの旅行日程
 ・復路分航空券
 ・新型コロナウイルス感染の陰性証明
  ※陰性証明はスリランカへの到着便の出発時刻の72時間前以降に取得したものが必要となります。

●空港到着後はPCR検査の受診が義務付けられています(無料)。
検査後24時間以内に結果が通知され、結果通知まではコロンボまたはネゴンボ市内のホテルでの待機が必要となります。

また、入国後4~5日後には2度目のPCR検査を指定宿泊施設にて行います。10日間以上滞在する外国人は3度目のPCR検査も必要となります。

もしPCR検査にて新型コロナウイルスへの感染の陽性が確認された場合は、場合に応じて政府指定の専用の宿泊施設または医療施設にて14~21日間の待機が課せられます。

●国内の全ての観光施設は2020年8月1日より感染対策を取ったうえで営業を再開します。
また、旅行者に対して国内での移動制限はありません。

旅行に際する交通手段、現地旅行会社は指定宿泊施設と同様に事前の予約をし、公共交通機関は利用しないことが要請されています。

スリランカでは全土でロックダウンが解除されたことに伴い、弊社も店舗での営業を再開しております。
営業時間は平日の10:00~16:00の短縮営業となります。

新型コロナウイルスを巡る状況についてはスリランカ政府の発表に応じてご案内させて頂きますが、
状況が落ち着いた時に皆様をすぐにお迎えできるよう、弊社スタッフ一同準備しております。ぜひお気軽にご相談ください。

何卒、宜しくお願い致します。
ネイチャー・エクスプローラー・ランカ スタッフ一同