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2020-08-07

スリランカの歴史⑤ ポロンナルワ時代

 スリランカの歴史を紹介する第5回。今回はポロンナルワ時代をご紹介します。


ポロンナルワはスリランカ中央部に位置し、従来の都アヌラーダプラから南東に約80㎞離れた町です。チョーラ朝によってアヌラーダプラが占拠されたため、よりチョーラ朝の影響の及びにくい南方の代替の都として発展していきます。


1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)








■ヴィジャヤバーフ1世の治世


11世紀初頭は南インドのタミル人国家チョーラ朝がラージャラージャ1世、そしてその後継であるラージェンドラ1世の治世で最盛期を迎え、スリランカもその支配のもとに組み込まれます。しかし1055年、スリランカでシンハラ人の王ヴィジャヤバーフ1世はチョーラ朝に対しての抵抗運動を開始し、1070年にチョーラ朝の内政抗争の隙をついて蜂起、1073年にはポロンナルワを奪還します。この際には同じく南インドのタミル人国家ですが、チョーラ朝に敵対していたパンディーヤ朝、またスリランカと同じくチョーラ朝の支配下にあったミャンマーのビルマ人王朝:パガン朝などからの支援もあったようです。


ヴィジャヤバーフ1世は南部のルフナ王国の出身です。スリランカはこれまで大きく3つの地域勢力に分かれており、北部のラジャ王国、南部のルフナ王国、コロンボ周辺のダッキナデサ王国がそれぞれ存在していました。アヌラーダプラやポロンナルワを擁し最大の勢力だったのが島の中央部から北部沿岸までを支配域としたラジャ王国で、これまでのシンハラ人王朝でも他の2勢力に対して支配的な立場にあった勢力です。ヴィジャヤバーフ1世はまず南部の自国ルフナ王国からチョーラ朝の勢力を追放し、徐々に北上してシンハラ人の支配域を奪還していきました。


ヴィジャヤバーフ1世はポロンナルワ王国の国王として即位し、都のポロンナルワは王の名から「ヴィジャヤラジャプラ」と改称されました。その後、ヴィジャヤバーフ1世は国の再興を目指して尽力します。およそ1世紀に渡って従来の都アヌラーダプラを占拠されていた間に、スリランカからは仏教僧が減り、仏教の信仰自体が衰退していました。ヴィジャヤバーフ1世はミャンマーのパガン朝から僧を招き、仏教国としての再建を目指します。また、聖地であるスリ・パダ(スリランカ最高峰のアダムス・ピーク)への巡礼の道を整備し、巡礼路の街の整備も進めて行きます。さらに、新たな貯水池を建設し、灌漑システムを再構築するなど大規模な公共事業を行い、首都の整備も進めて行きます。


ヴィジャヤバーフ1世の建設したアタダーゲ。王権の象徴である仏歯を祀った寺院跡です。



ヴィジャヤバーフ1世は1110年に亡くなるまでの55年間、ポロンナルワの王として君臨し、老齢になるまでの長い支配にちなんで「マハー・ヴィジャヤバーフ」(偉大なるヴィジャヤバーフ)と呼ばれます。現在のスリランカ陸軍の歩兵隊はこの偉大な王の名をとって「Vijayabahu Infantry Regiment」(ヴィジャヤバーフ歩兵連隊)と名付けられています。


この時代はラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力はポロンナルワ王国の下に統治されていましたが、ヴィジャヤバーフ1世の死後はまた王権を巡って3勢力間の抗争が続きます。



■パラークラマバーフ1世の治世

ヴィクラマバーフ1世の死後は彼の兄弟や息子たちの治世が続き、またラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力が王権を巡って争う状況が続きました。その中で、3勢力の権力を掌握しスリランカ全島を支配下に置いたのがヴィジャヤバーフ1世の孫、パラークラマバーフ1世です。


パラークラマバーフ1世はコロンボ周辺の勢力、ダッキナデサの王家の出身です。叔父から王位を継いだパラークラマバーフ1世はガジャ国の王ガジャバーフを破ってポロンナルワを獲得し、またガジャ国と同盟を組んでいたルフナ国勢力による攻撃を退け、1153年にスリランカ島の全権を掌握するに至ります。ポロンナルワを都としたパラークラマバーフ1世は、ヴィジャヤバーフ1世と同様に仏教寺院や灌漑設備の建設を進め、33年間の治世の間にポロンナルワは大きく発展していきます。


パラークラマバーフ1世の建設した貯水池はパラクラマサムドラとして知られ、従来からあった貯水池を拡充し、さらに新たな貯水池を追加したものです。面積22㎢に及ぶ巨大な貯水池は現在でも貴重な水源として利用されています。また、ポロンナルワ宮殿やガル・ヴィハーラ等、ポロンナルワに残る遺跡の多くもパラークラマバーフ1世の治世で建設されたものです。彼自身の石像と呼ばれるレリーフも残されています。


パラークラマバーフ1世と伝えられる石像(モデルについては他諸説あり)



ポロンナルワ王宮跡

ガル・ヴィハーラの仏像



また、パラークラマバーフ1世は周辺諸国に対しても影響力を増していきます。友好関係にあったミャンマーのパガン朝でシンハラ人の使者を捕らえたことに抗議して軍を派遣し、また南インドのタミル人に対しても牽制措置をとっています。アダムス・ブリッジのあるポーク海峡を隔ててスリランカと接するラメスワラムにシンハラ人の街を建設し、チョーラ朝やパンディヤ朝といった南インドの国家に対してある程度の支配力を維持していました。


また、仏教を通しての周辺諸国との交流も密接で、ポロンナルワには度々タイ、ミャンマー、カンボジア等から仏教僧が訪れていたこともわかっています。トゥマハル・プラサーダはタイの上座部仏教の寺院に類似した仏塔で、タイからの僧、建築士によって建てられたものと考えらえています。


トゥマハル・プラサーダ


ポロンナルワ王国の下でのスリランカの統一、またその統治下での文化の興隆から名君として知られるパラークラマバーフ1世ですが、度重なる遠征や公共事業のために大量の資金を費やし、また国民にも重い税を課しており、国家としての財政状況は芳しくなかったようです。後の統治者であるニッサンカ・マッラの治世では、最も民衆の支持を受けた政策はあまりにも高すぎる税率の引き下げだったそうです。


しかしパラークラマバーフ1世の人気は絶大なもので、次の400年の間にはパラークラマバーフ1世の名を自身の名に採用する君主が7人以上存在していたと伝えられています。また、現在のスリランカ海軍の船にもパラークラマバーフ1世にちなんで名づけられた2隻の軍船が存在しています。



■ニッサンカ・マッラの治世

パラークラマバーフ1世の死後は従弟のヴィジャヤバーフ2世が王権を引き継ぎます。そしてこのヴィジャヤバーフ2世が副王として選んだのがニッサンカ・マッラでした。


ニッサンカ・マッラはスリランカではなく、インドのカリンガ国の出身です。カリンガ国はシンハラ人の祖:ヴィジャヤ王のルーツとなる地であり、ニッサンカ・マッラ自身もヴィジャヤの血を継ぐ者として王権を持つと考えられました。副王としてスリランカに招かれたニッサンカ・マッラはヴィジャヤバーフ2世の王権を継ぐはずでしたが、ヴィジャヤバーフ2世はニッサンカ・マッラと同じくカリンガ国出身のマヒンダ6世によって殺害され、マヒンダ6世が王権を強奪します。


しかしその僅か6日後にニッサンカ・マッラはマヒンダ6世を粛正、ポロンナルワの王として即位します。ニッサンカ・マッラはパラークラマバーフ1世の意思を継ぎ多くの仏教寺院を建設、また貯水池など灌漑設備の拡充に努めました。ポロンナルワに残るランコトゥ・ヴィハーラ、ニッサンカ・ラタ・マンダパヤ、ハタダーゲなどの建築は彼の治世で建設されたものです。また、ミャンマーのパガン朝やカンボジアなどの遠隔地とも良好な関係を築き、南インドに対しても牽制を続けるなど対外政策にも優れた政策を行っていました。カリンガ国出身の王という異色の出自でしたが、人徳のある王として称えられたと伝えられています。

ポロンナルワ最大の仏塔:ランコトゥ・ヴィハーラ


ニッサンカ・マッラが僧の読経を聞いていたというラタ・マンダパヤ



王宮内のニッサンカ・マッラの沐浴場








■ポロンナルワ王国 黄金時代の終焉


民への重税の緩和もあり人気の高かったニッサンカ・マッラですが、パラークラマバーフ1世と同じく多くの公共事業を行ったため、次第に国の資金は枯渇していきました。黄金時代とも呼べるポロンナルワ王国はニッサンカ・マッラの死後急激に弱体化し、再び南インドのタミル人国家による侵入を受けていきます。


1200年にはスリランカ島北端のジャフナ半島にタミル人の入植がはじまり、後の1300年にはタミル人国家ジャフナ王国が建国されます。また、カリンガ国出身のタミル人:マーガ王がジャフナ半島からスリランカへ侵攻し、1215年にはポロンナルワを占領しています。シンハラ人は王権の象徴である仏歯をポロンナルワから持ち出し、以降はスリランカの南部へと遷都を繰り返していくこととなりました。


マーガ王はその後シンハラ人のヴィジャヤバーフ3世の抵抗運動によって廃され、1287年にはシンハラ人によってポロンナルワが奪還されました。しかし1293年にヴィジャヤバーフ3世の治世が終わった後にポロンナルワは放棄され、1900年代のイギリス統治下で発掘が始まるまでジャングルに埋もれることになります。


ポロンナルワ王国の終焉の後、スリランカでは小国シンハラ人とタミル人の各国家が併存する動乱期に入っていきます。



Text by Okada










2020-07-17

スリランカの歴史③スリランカ建国神話 先アヌラーダプラ時代


 スリランカの歴史をご紹介する第3回、今まで通史の概要をご紹介してきましたが、今回から各時代に焦点を当ててみていきます。まずはスリランカの建国神話に関する時代から見ていきましょう。特に時代の名称があるわけではありませんが、ここではこの後に長く都がおかれて続いていくアヌラーダプラ時代に先んじる時代ということで、先アヌラーダプラ時代としてご紹介します。

1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.動乱期(13世紀末~1505年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)



■スリランカ建国神話


スリランカにはもともと土着の人々が暮らしていましたが、スリランカの歴史は通史での多数派であるシンハラ人の立場で語られるため、シンハラ人王朝の成立からがスリランカの歴史として語られています。スリランカでのシンハラ王朝の成立はヴィジャヤ王子という人物から始まっており、これの真偽は明らかではありませんが、まずはヴィジャヤ王子に関わる伝説から辿っていきます。

 後にシンハラ人の祖となるヴィジャヤ王子はもともとインドからやってきたと言われています。インドのヴァンガ国(現在のベンガル周辺)の王とカリンガ国(現在のオリッサ周辺)の姫が結婚し、娘スッパデビが生まれます。成長したスッパデビはライオンとの間に子を設け、男児シンバーフとその妹シンハシアヴァリが生まれました。2人の子は後に結婚して32人の子どもを設け、この長男がウィジャヤ王子です。

 シンバーフは現在のグジャラート(又はオリッサ)にシンハプラ王国を建国し、成長したヴィジャヤ王子は自らの信者や従者総勢700人とともに新天地としてスリランカへ上陸します。伝説では仏陀の命日に初めてスリランカの地を踏んだとも言われていますが、上陸は紀元前483年と伝えられています(※実際の上陸は543年頃など、他諸説あり)。

 スリランカ上陸後のヴィジャヤ王子は、土着のヤッカス族・ナーガ族を従属させてヤッカス族の女王クヴェニと結婚し、スリランカ中部西海岸(現在のチラウ周辺)にタンバパニ王国を建国します。ウィジャヤとその従者たちの子孫がシンハラ人となるため、スリランカではヴィジャヤがシンハラ人の祖であり、この王国がスリランカ初のシンハラ人王朝として伝えられています。

女王クヴェニに関係すると言われるウィルパットゥ国立公園内の遺跡。まだ詳細な調査は行われていません。


 ヴィジャヤは晩年に弟のスミッタに王権を譲ろうとしますが、スミッタもまた高齢であったため、スミッタは自身の息子パンドゥワスに王権を譲ります。しかしパンドゥワスはインドで既に自身の王国の王を務めていたため、彼が代わりの王をたててスリランカへやってくるまではウィジャヤの側近であったウパティッサが王を務めます。ウパティッサは紀元前505年に都を移してウパティッサ・ヌワラ(ウパティッサの都の意、現在のマンナル周辺)を建国し、パンドゥワスの到着までの短い間でしたが、摂政として王権を引き継ぎました。

 翌 紀元前504年にはパンドゥワスがスリランカへ上陸、新しく都をパンドゥワス・ラタ(パンドゥワスの地)と改め、シンハラ人の王として正式に王権を引き継ぎました。その後、王権は彼の子のアブハヤ、アブハヤの弟ティッサへと引き継がれます。ティッサは彼の甥であるパンドゥカバハヤ王によって倒され、パンドゥカバハヤ王はその後長く都となるアヌラーダプラの都を建設しました。


ヴィジャヤに関する記述はかなり時代が下った後の紀元後5世紀ごろまでに編纂された『マハーワンサ(大王統史)』によるものですが、記述は伝説的に語られる部分が多く、史実としての信憑性は低いと考えられています。ヴィジャヤの出自はインドのアーリヤ系であり、仏陀の命日にスリランカへ上陸した、というストーリーは、おそらく既に仏教大国となっていた当時のシンハラ人王朝のルーツに神話的な正当性を付与するためのものであったという説です。とはいえ現在でも、スリランカの原点はヴィジャヤにある、というのは
一般的な考えとしてスリランカの人々に受容されています。



■王都アヌラーダプラの建設とタミル人の侵入


 パンドゥカバハヤは新たな都として紀元前437年にアヌラーダプラを建設し、従来の王権を引き継いでラジャ・ラタ(王の国の意)王国を建国します。彼は名君として知られ、王国の区画の整理や都での貯水池の建設など、王国としての整備を推し進めました。彼の生誕には、生まれる前から叔父たちに殺される予定にあること、それを避けるために母親によって村の牧畜民の子と交換され牧童として育つこと、後に叔父たちを倒して王となることなど、インドのクリシュナ神の神話を彷彿とさせるストーリーが残っており、シンハラ人の英雄として少なからず神格化されていたと考えられています。

 パンドゥカバハヤの後もアヌラーダプラの繁栄は続き、紀元前250年にはインドのアショカ王の子:マヒンダが使者としてスリランカを訪れ、仏教を伝えています。当時のティッサ王は仏教に帰依し、マヒンダのためにマハーヴィーラ(大寺)を建設しました。ここから王権と仏教は密接に結びつき、仏教は国家宗教としてシンハラ人の間で熱心に信仰されるようになります。各地にも仏教寺院が建立され、特にアヌラーダプラは仏教の一大センターとして繁栄します。

紀元前3世紀にインドのブッダガヤの菩提樹の分木がティッサ王によって植樹されたもの。
アヌラーダプラは現在も仏教聖地として多くの巡礼者が訪れます。


 しかしアヌラーダプラの政権が強固になると同時期に、南インドからのタミル人の侵入が激しくなり、シンハラ人王朝と衝突し始めます。アヌラーダプラは度々タミル人に数十年間という長期間の占領を受け、以降スリランカの歴史を通してシンハラ人と対立していきます。シンハラ人がアヌラーダプラを奪回するのは後の紀元前161年、ドゥッタガマーニー王によるものでした。

 ドゥッタガマーニーは当時いくつか存在していたスリランカ内のシンハラ人王国に対して支配的な存在となり、スリランカを始めて統一した王として、ヴィジャヤ以来の偉大な王として伝えられています。彼の治世以降、本格的にアヌラーダプラを都とする時代が続いていきます。


Text by Okada

 

2020-07-10

スリランカの歴史②スリランカ通史概説 後編



 スリランカの歴史紹介の第2回。今回は通史概説後編と題して、植民地時代から独立後の内戦期、そして現代に至るまでの道のりを辿っていきます。

(前回の記事の範囲)
1.       スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)
2.       アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.       ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.       動乱期(13世紀末~1505年)

今回紹介する範囲
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)



5.       ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)


当時、ポルトガルは東南アジアの香辛料貿易の開拓を進めており、南インドのケララ地方、またスリランカで算出するシナモンを入手することも目標の一つでした。そんな中1505年にポルトガルの商船がコロンボへ漂着します。

 ポルトガルの船の大砲や銃などの武器を警戒したコーッテ王国はこれを警戒してポルトガルと和平条約を結びます。そして10年後の1515年、ポルトガルは軍艦を率いて再びコロンボへ上陸し、勝手に要塞を建設し始めます。コーッテ王国はこれに異を唱えて軍を率いて抗議しますが、ポルトガルの兵力にかなわず敗退し、実質的に今後のポルトガル商船の自由な出入りを認めることになります。

 コーッテ王国がポルトガルと友好関係を築いたのには、当時王国内で起こっていた内紛を治めるための軍事力を得るためという目的もありました。しかし結果的にはこれがポルトガルへの依存を高め、コーッテ王国の求心力を失うことに繋がってしまいます。1521年にはコーッテ王国の国王が暗殺され、王国はコーッテ/シータワカ/ライガマの3つに分裂しました。

分裂後のコーッテ王国では国王がポルトガルによって指名されたり、その国王がカトリックへ改宗させられたりと徐々にポルトガルの干渉が激しくなっていきます。1571年にはゴールへ要塞を築いて本拠地とし、また1580年にはコーッテ国王に対して、「自分が亡くなった後はランカ島をポルトガル国王へ譲る」と宣言させています。

1859年にポルトガルが砦を築いたゴールの街(写真:ゴール灯台)



 コーッテ王国のほかに対しても、カトリックへの改宗を拒否したタミル人国家のジャフナ王国へ進軍したり、キャンディ王国へ進軍したりとスリランカ全土の支配へ向けて版図を広げていきます。


 1597年、コーッテ王国のダルマパーラ王が死去し、シンハラ王朝としての王権はキャンディ王国に引き継がれます。ちょうどこのころに新たにオランダがスリランカへ進出しており、キャンディ王国は17世紀前半からはオランダと協力してポルトガルの侵略に対抗します。

 ポルトガルはキャンディ王国からトリンコマリーやバッティカロアなどの地方を略奪しますが、都のキャンディではキャンディ王国に敗退し、またその後オランダにトリンコマリーとバッティカロアを奪われ、キャンディ王国に返還させられています。オランダが相手となると分が悪いことを悟ったポルトガルは1645年にオランダとの和平条約を締結。一時安寧の時代が流れますが、1656年にポルトガルが支配していたコロンボをオランダが奪取し、拠点を失ったポルトガルはスリランカから追放されます。
 オランダ植民地時代の始まりです。


6.       オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)


キャンディ王国と協力体制をとっていたオランダですが、ポルトガルという強敵がいなくなった後は着実に侵略者としてのスリランカ支配を進めていきます。キャンディ王国からトリンコマリーとバッティカロアを奪取した他、ジャフナ王国も支配下に収めました。

その後一旦キャンディ王国との休戦協定を結ぶものの、1766年の和平条約はキャンディ以外の多くの地域をオランダに譲るという屈辱的なものであり、実質的なオランダの支配を意味するものでした。

キャンディの仏歯寺には王権の象徴である仏歯が祀られています
ゴールのオランダ教会。現代に残る世界遺産フォート地区は主にオランダ占領期に形成された


オランダは当時、世界初の株式会社であるオランダ東インド会社を設立し、南・東南アジアの香辛料貿易を独占することで莫大な利益を得ていました。決定的な出来事は1623年のアンボイナ事件です。これはクローブなどの産地であるインドネシアのアンボイナ島でオランダがイギリス商館を襲い、イギリス勢力を一掃してオランダ支配を確立した事件でした。

イギリスはこれを理由として東南アジア進出を断念しインド進出へ路線を変えますが、これはイギリスの反オランダ感情を大いに煽る事件でもありました。イギリスはこの後、1795年よりスリランカにて再びオランダと抗争を始め、重要地域を次々と攻略して1796年にはオランダ勢力をスリランカより一掃します。



7.       イギリス植民地時代(1796年~1948年)


1802年、オランダは正式にスリランカをイギリスへ割譲。イギリスによる植民地支配が本格的にスタートします。1815年にはキャンディ王国内での内乱に乗じてキャンディに進軍し、2400年以上にわたって続いたシンハラ王朝を断絶させ、スリランカの完全統治を果たしました。

 その後、植民地としての行政・司法・議会などの整備を進めると同時にコーヒーのプランテーションを本格化させ、南インドから大量のタミル人を労働力として移住させました(これが後の民族問題へも発展します)。1870年には病害で壊滅したコーヒーに代わり当時インドで成功しつつあった紅茶のプランテーションをスリランカで開始しています。

スリランカを代表する品目となったセイロンティーの収穫風景(ヌワラエリヤ)


 その後も植民地支配の土台として行政整備を進めますが、「少数派のタミル人(ヒンドゥー教徒)を行政幹部として重用することで多数派のシンハラ人(仏教徒)との間に軋轢を生じさせ民族対立を煽り、スリランカとしての英国からの独立運動の発展を避ける」という分割統治は後の凄惨な内戦の原因となりました。


しかし第一次・第二次世界大戦中にシンハラ派・タミル派ともに独立を望む民族運動が徐々に発展していきます。第二次世界大戦後の1948年、ついにスリランカはイギリス連邦内の自治領として独立し152年に及ぶイギリス支配を脱しますが、イギリスという圧倒的支配が除かれた結果、興隆したそれぞれの民族意識は内戦として噴出することになってしまいます。


8.       スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)


スリランカ内戦についてはまた改めて記事として紹介しますが、ここでは概要のみ確認します。

スリランカ国内にはシンハラ人(74%:主に仏教徒)・タミル人(18%:主にヒンドゥー教徒)、スリランカ・ムーア人など多くの民族が暮らしますが、イギリスの分割統治の結果としてシンハラ人は貧しく、タミル人は高い教育を受けて所得が高いという状況がありました。

状況が大きく変わったのは1956年のバンダラナイケ政権からです。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」を掲げて選挙で圧勝し、シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策など急進的な政治を進め、タミル人の反発を招きます。この年から各地でシンハラ人とタミル人の間の衝突が頻発していきました。

その後もシンハラ人優遇政策は続き、少数派であるタミル人への圧迫が激しくなります。タミル人側では後の「タミル・イスラームの虎(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Ealam)」の前身となる過激派組織が結成され、1983年以降は政府軍との全面的な戦争状態へ発展します。また、タミル人難民のカナダ等北米、欧州、アジア各国への避難も進んでいきます。

画像出典:外務省:スリランカ内戦の終結~シンハラ人とタミル人の和解に向けて


 状況が再び変わるのは2002年、中東和平などでも活躍したノルウェーの駐安芸で政府側とLTTEの間に一時停戦合意が成立します。その後も6回の和平交渉が行われますが、2005年のラージャパクサ大統領就任後に再び状況が悪化、2008年には停戦合意が正式に失効します。

 タミル人側は国際社会への呼びかけと協力要請を続けますが、スリランカ政府軍はその間も徐々にLTTEの拠点を攻略して行きます。そして2009年5月19日、LTTEのプラバーカラン議長の死亡を確認したことで内戦の終結が宣言されました。平和的解決ではなく、スリランカ政府軍の勝利によって解決の形をとった内戦では7万人以上の死者が記録されています。



9.       内戦終結後~現代 (2009年~)


ラージャパクサ大統領は、すべての国民に受け入れ可能な政治解決に取り組んでいくことを表明しています。現在も約28万人のタミル人難民がスリランカ国内に存在し、不衛生な難民キャンプでの生活を強いられています。また内戦で破壊されたインフラの復旧や地雷の撤去など多くの課題が残されており、両民族の軋轢も解消の途上にあります。

 しかし内戦後、スリランカは平和の上の経済成長を遂げていきます。コロンボには海外資本の企業も参入し、自由に訪問ができることになったことで観光業も発展、多くの観光客が訪れる魅力的な観光国となっています。


 昨年2019年にはイスラム過激派による同時多発テロが発生し、邦人1名を含む250人以上が亡くなるという痛ましい事件がありました。その後厳重な警備の下で観光客数は戻りつつありましたが、現在は新型コロナウイルスの影響で再び観光業は大きな打撃を受けています。1日も早く、スリランカを含め国際的な状況が回復することを願っています。


Text by Okada

2020-06-26

スリランカの歴史① スリランカ通史概説 前編



スリランカの歴史は大変深く、記録に残されているものだけでも2500年以上の歴史を持っています。紀元前5世紀のシンハラ人の王朝の成立以降、13世紀末までは南インドからのタミル人国家との攻防を繰り返しますが、15世紀以降はポルトガル・オランダ、そしてその後第二次世界大戦終結後の独立まではイギリスの植民地としての歴史を歩み、独立後も長い内戦が続き、現在のスリランカへ至っています。

今回からは欧米の植民地支配、独立後の内戦とその2500年の歴史を9つに分けて、スリランカの歴史を追っていきます。各節は非常に簡単な概略ですが、今回はポルトガルの植民地支配の始まりまでの歴史をご紹介します。


1.       スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)
2.       アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
3.       ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)
4.       動乱期(13世紀末~1505年)

(以下次回更新)
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)


1.スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)


 スリランカの歴史の始まりは紀元前483年と言われています。これは北インドのアーリア系の民族であったウィジャヤ王がスリランカへ渡りシンハラ人の祖となったというものです。この記述自体は紀元後5世紀に入ってから編まれた歴史書「マハーワンサ」に記されたものであり、事実としての信憑性は否定的に取られていますが、伝説としてスリランカ内外に広く知られています。

ウィジャヤ王の妻であるスリランカのクヴェニ女王に関係すると言われる遺跡(ウィルパットゥ国立公園内)


 紀元前377年には首都アヌラーダブラが建設され、その後紀元前250年にインドのマウリヤ朝の王:アショーカの使者であるマヒンダが仏教を伝えたとされています。シンハラ王朝は仏教に帰依して多数の仏教施設を建設し、仏教は国家宗教として発展していきます。

 また、紀元前3世紀末から南インドのタミル人がスリランカに侵入を始め、紀元前210年にはタミル人がアヌラーダブラを征服します。これ以降、スリランカでは常にシンハラ人とタミル人の王朝の攻防が続いていきます。



2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)


 紀元前161年、シンハラ王朝の王ドゥッタガマーニーがタミル人をアヌラーダブラから追放し、初めてスリランカ全域の統一支配を成し遂げます。その後もシンハラ王朝は基本的にアヌラーダブラを都としますが、何度もタミル人による征服を受け、またその度にタミル人を追放して都を奪還しています。

 この間に11年間だけ都として使われたのがスリランカの世界遺産として有名なシギリヤの都です。シギリヤの建設者であるカッサバ王は、タミル人からアヌラーダブラを奪還した父王を殺してシギリヤに新たな都を建設しますが、弟のモッガラーナによって王権を奪われ、その後また都はアヌラーダブラへ戻されています。

 アヌラーダブラは仏教の中心センターとして、また灌漑に支えられた穀倉地帯として栄えますが、継続してタミル系王朝の侵攻を受けていました。紀元前769年には侵攻を避けるために南下したポロンナルワへ遷都しますが、その後もタミル系王朝による侵攻は弱まらず、1017年にはシンハラ王朝の王がチョーラ朝に捕らわれ、新たな都であるポロンナルワもタミル人総督の支配域に置かれることになりました。


アヌラーダブラには仏陀がその下で悟りを開いたという菩提樹の分木が植樹されています

11年間だけ利用された都:シギリヤ



3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)


 チョーラ朝の支配下に置かれたシンハラ王朝ですが、1073年にウィジャヤバーフ王がポロンナルワを奪還し、シンハラ王朝の再建を果たします。その後、彼の孫にあたるバラークラマバーフ王はスリランカを再び統一し、ポロンナルワの整備を進めます。灌漑設備を充実させて生産力を増し、また仏教寺院を数多く建設したことで、ポロンナルワは仏教の聖域として国外にまで知られるようになります。

当時のポロンナルワ中心部に建設されたワタダーゲ(円形の仏塔)

ガル・ヴィラーハの座像

 しかし12世紀末にはシンハラ王朝は勢力を失い、13世紀初頭には南インドのカリンガ朝によってポロンナルワを奪われ、シンハラ王朝は南西のダンバデニヤへ都を移します。その後もカリンガ朝との攻防を続けますが、シンハラ王朝は徐々に勢力を失って弱体化し、南部の街へと何度も遷都を繰り返していきます。ポロンナルワは13世紀末には完全に放棄され、以降1900年代に発掘が進められるまでジャングルに埋もれることになりました。



5.       動乱期(13世紀末~1505年)


13世紀末にはセイロン島北端部のジャフナ半島にタミル人国家のジャフナ王国が成立し、14世紀半ばにはスリランカ南部にまで支配域を広めます。また、マルコポーロ、イブン・バットゥータがスリランカを訪れ記述を残したほか、明から鄭和が訪れています。

シンハラ王朝は鄭和の使節団の船を襲おうとしますが逆に王族を捕虜として捕らえられ、中国へ連行されます。明はその後王族をスリランカへ引き渡し、パラークラマ・バーフ6世を王として指定します。バラークラマ・バーフ6世は新たにコーッテ王国を建国、1450年にはジャフナ王国を支配下に置きスリランカを統一しますが、スリランカはその後30年間 明の朝貢国となりました。

また、1469年には別にウィクラマバーフがキャンディ王国を成立させており、コーッテ王国の支配下だったジャフナ王国も1479年に再び独立を果たします。後のポルトガル・オランダ・イギリスの植民地時代にはこのスリランカの3王国と侵略国との間での闘争が繰り広げられていきます。





 この後、1505年にポルトガルの商船がコロンボへ漂着し、コーッテ王国との協力体制のもと徐々にポルトガルの支配が全域に及んでいきます。ポルトガルの後もオランダ、イギリスと宗主国が変わるものの、スリランカは1948年のイギリスからの独立まで実に443年間という長期にわたって欧米諸国としての歴史を歩んでいきます。


Text by Okada

2020-05-29

スリランカ 4つの古都と世界遺産


新型コロナウイルスの影響で3月下旬よりロックダウンが続いていたスリランカですが、やっと5月23日に発表があり、5月26日より夜間(午後10時より翌午前4時)のみの外出禁止となり、またコロンボ県・ガンパハ県を除いて県をまたぐ移動も許可されるなど大幅に規制の緩和が始まってきました。


 海外からの旅行客の受け入れはまだ先になりますが、日本でも無事に海外旅行が解禁された暁には、また是非スリランカへの旅のご検討を頂ければ幸いです。また自由に旅行ができる日が戻ることを祈って、通常のブログ記事も改めて更新を続けて行きます。



スリランカ 4つの古都と世界遺産


 現在、合計8つの世界遺産が登録されているスリランカですが、そのうちの4つが当時のシンハラ王朝の都となった街でした。

スリランカの世界遺産(登録年)

文化遺産
聖地アヌラーダプラ(1982年)
古都ポロンナルワ(1982年)
古都シーギリヤ(1982年)
聖地キャンディ(1988年)
ゴールの旧市街と要塞(1988年)
ダンブッラの石窟寺院(1991年)

自然遺産
シンハラジャ森林保護区(1988年)
スリランカの中央高地 (2010年)


今回の記事ではシンハラ王朝の始まりからイギリス軍の侵略による王朝の終焉まで、都の変遷をもとにご紹介します。

1.       スリランカ最古の都:アヌラーダブラ

<世界遺産登録:1982年>
紀元前483年、シンハラ人の祖とされるヴィジャヤ王子がスリランカに上陸したとされています。その後紀元前3世紀にインドからアショカ王の王子:マヒンダが仏教を伝え、アヌラーダブラは仏教都市として栄えていきます。

その後、紀元後5世紀に一シギリヤに遷都されたものの都は再度アヌラーダブラへと戻され、11世紀まで長くシンハラ朝最初の都として機能しました。


アヌラーダブラのシンボル:ワンウェリ・サーヤ大塔

イスルムニヤ精舎本堂の涅槃仏






2.       シギリヤ

<世界遺産登録:1982年>

紀元後5世紀、シンハラ王朝のカッサバ王によって高さ195mの岩上に建造された王宮。シギリヤ・ロックとして、スリランカ随一の名所として知られますが、実際にこの都が利用されたのは僅か11年に過ぎませんでした。

カッサバ王は父王を殺害して王権を奪取しますが、平民出身の母親を持つカッサバ王は王族出身の母親を持つ弟:モッガラーナに王位を奪われることを恐れ都をアヌラーダブラからシギリヤへと移し、岩上に王宮を建設しました。

しかし11年後、インドに亡命していたモッガラーナに敗れたカッサバは自ら命を絶ち、シギリヤ王権は終焉を迎えます。モッガラーナはシギリヤを仏教僧へ寄進し、をアヌラーダブラへ戻します。その後シギリヤは14世紀頃まで修道院として存続するものの徐々に衰退し、キャンディ王国の治世の後に放棄されます。


シギリヤ・ロック

シギリヤ・レディのフレスコ画




3.       ポロンナルワ

<世界遺産登録:1982年>


1017年、スリランカは南インドのチョーラ朝の進行を受け古都アヌラーダブラを去ってポロンナルワへと遷都します。当時のシンハラ王ヴィジャヤバーフは灌漑設備の整備と仏教の布教に力を注ぎ、その意思を継いだ彼の孫:パラークラマ・バーフは巨大な貯水池:パラークラマ・サムドラを建設、また多くの寺院を建立し、ポロンナルワは仏教都市として名高い都市へ成長します。聖域として知られるようになったポロンナルワにははるばるタイやビルマからも仏教僧が訪れていました。

13世紀に入り再びチョーラ朝からのタミル人の侵入が激しくなり、シンハラ王朝は徐々に島の内陸部へと南下し、都も移り変わっていきます。その中でポロンナルワは放棄され、以降20世紀に発掘が進められるまでジャングルの中に埋もれることとなりました。


当時のポロンナルワの中心地に位置する円形の仏塔:ワタダーゲ


パラークラマ・バーフ一世の重厚なレンガ造りの宮殿跡。当時は7階建だったが現在は3階部分までが残存している。



4.       最後の都:キャンディ

<世界遺産登録:1988年>

チョーラ朝の侵攻によって南下を続けたシンハラ王朝は15世紀に入って都をキャンディに安定させます。山々に囲まれたキャンディは狭い盆地となっており、外敵の侵入を阻むためにも好都合な土地でした。その後、1815年にイギリス軍により滅ぼされるまでの300年以上にわたり最後の都として機能し、現在でも王権の象徴である仏の歯を擁する仏歯寺が置かれています。

スリランカの象徴でもあるこの仏歯を先頭に市内を回り歩くペラヘラ祭は6~7月に開催され、スリランカ最大の祭りとして盛大に祝われています。

仏歯を祀るキャンディ仏歯寺


1805年のポルトガルのコロンボ侵出から欧米列強の植民地支配をうけることとなったスリランカは、1796年よりイギリスの東インド会社の支配下となります。その後1802年にはイギリスの連邦直轄領となり、1815年のイギリス軍のキャンディ侵攻によって都は落とされ、シンハラ王朝は終焉を迎えました。

スリランカは第二次世界大戦を経て1948年にイギリス連邦内の自治領セイロンとして独立しますが、打ち捨てられていた古都は植民地時代から発見・研究が進められており、現在ではシンハラ王朝の遺産として世界的にも人気のある観光地となっています。



Text by Okada



2019-09-05

今年のペラヘラ祭りの様子~その①~

アーユボワーン!!
ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

今年も終わりました、ペラヘラ祭り。
弊社のキャンディ出身、スタッフ達もお祭りが終わって少し寂しそう・・・
気のせいですかね、、

今年もお祭りの様子を写真とともにご紹介しようと思います!!

今年は祭りも終盤に差し掛かってきたRandoli Peraheraの様子をご紹介。
8月12日、わたしたちが座っていた銀行近くにできた特設会場では
19時40分頃からぞろぞろと行列が見え始めました。

パート①となる今回は、まずは象さんたちをメインにご紹介いたします。

お寺によって装飾は異なります
各寺院で飼われている象さん達が、それぞれ異なる装飾でやってきます。

鎖が多く、ちょっとかわいそう・・・
こぶりな象さんがいれば、大きな象さんも。
基本的にはタスカー(象牙)がある象が歩いてきます。

少し、装飾も派手になってきました
ちなみに、キャンディ郊外の人気観光地、ピンナウェラ象の孤児院卒業?の
象さんも多いようですよ。

基本的にライトは頭の部分のみ
ほとんどの場合、象に乗っている人は1人や2人ですが、、、
いよいよお祭りも終盤、となるとなんと4人!?

乗っている、4人!?!
やはりメインは仏歯が納められている輿。
いっそうの輝きを放っていました。

仏歯が納められています
 周りのスリランカ人の盛り上がりもすごい、すごい!

やはり仏歯が納められているだけあって、立派ですね。

お祭りそのものは、だいたい3時間~4時間くらい。
同じような装飾はないので、それだけでも興味深いですよ!

今回は象にフォーカスした紹介ですが、
次回はキャンディアンダンサー達を紹介させていただきます!

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Photo by Saiyu Japan / Text by Reina Sakamoto

2019-08-15

コロンボから11km! 仏陀が訪れた聖地、キャラニヤ

アーユボワーン!!
ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

突然ですが皆様は仏陀が3度、スリランカへ訪れたことをご存知でしたか?

一度目の訪問は、スリランカ中央部より少し東にあるマヒヤンガナという村。
それは仏陀が悟りを開かれてから9ヶ月後と言われています。

二度目の訪問は、悟りを開かれてから5年後。北部のジャフナ半島にある
ナーガディーパ島を訪れました。
全長は10kmほどの小さな島ですが、当時宝石がちりばめられた玉座をめぐり
争いが起こっていました。
仏陀はこの争いを止め、玉座を譲られますが断り、ストゥーパに奉ったそうです。
今でもなお、このストゥーパは残っています。

さて本題のキャラニヤの紹介へ。悟りを開かれてから8年後の三度目の訪問。
キャラニヤを訪問されたのは5月の満月の日でした。
伝説によると、この地で沐浴をし、説教をしたそうです。

現在も美しい寺院の姿がご覧いただけます。

手前:本堂 奥:ダーガバ(仏塔)
男性も女性も、上下白の服装で参拝に来る方が多いです。

中に入ると、あたり一面に壁画が・・・!
そういえば仏歯寺の新堂にも歴史絵がありましたね。

美しく残された壁画
壁画だけでなく、仏像なども出てきて迫力もあります。
天井までびっしり!

壁や天井も壁画・仏像で埋め尽くされています
そして黄金の涅槃物。
非常に多くの方が祈りを捧げていました。

黄金の涅槃物
さらに進むとこちらもまたぴかぴか!
仏陀の遺灰の一部を祀っているそうです。

タスカーもあります
内側は圧倒されっぱなしでしたが、もちろん外側も美しいです。

ガネーシャも発見しました!
こちらはムーンストーン!
ムーンストーンは入り口から悪魔が入るのを防ぎ、本尊を守るために
仏塔や仏寺の入り口に建てられます。

ムーンストーン:アヌラーダプラ、ポロンナルワのものと異なり動物がほとんど描かれていません
アヌラーダプラやポロンナルワを訪問した後の方はお気付きかもしれませんが、
描かれているものが違います!動物はゾウくらいしか確認できません・・・

ちなみに、アヌラーダプラのムーンストーンには動物が4種類、
【ゾウ・牛・ライオン・馬】が描かれていますが、
ポロンナルワのムーンストーンには【牛】が描かれていません。
これは、この時代の頃にはすでにインドからヒンドゥー教が伝わり、
神様である牛を外したからだと言われています。

興味深いですよね。。。
文化と宗教が共存するスリランカ。

ちなみに、仏陀はこの三度目の訪問時にはキャラニヤのみならず、
その他13の地を巡ったそうです。
詳しくはまた今度の機会にでも・・・

ぜひコロンボで時間ができた際はキャラニヤ寺院を訪れてみてはいかがでしょうか。
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Text by Reina Sakamoto

2019-08-05

ついに開始!キャンディが熱くなる、ペラヘラ祭り★

アーユボワーン!!
ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

いよいよこの時期がやって参りました。
そうです、ペラヘラ祭りです!!
指先まで丁寧なダンス
今年の日にちは8月5日から15日の11日間。
【ペラヘラ】とは【行列】を意味し、キャンディアンダンスをはじめとした
スリランカの様々な伝統舞踊を一度に披露する大パレード!
また、40頭から100頭の着飾った象たちも参加します。

想像以上にぴかぴかです
ペラヘラ祭りがいつから始まったかは定かではありませんが、
仏歯はめぐみの雨をもたらすとされており、
奉納されたアヌラーダプラやポロンナルワは仏歯の神秘的な力により、
雨がもたらされ発展してきたとされています。

ちなみにペラヘラ祭りが雨季が始まる
8月の満月の日(エサラ・ポーヤ)に行われるのは、
この言い伝えから、とされています。

昔のペラヘラ祭りの様子、やっぱり勢いありますねー
引用先:ペラヘラ祭りのコチラのサイト
仏歯は4世紀にスリランカへもたらされたといわれており、
当時の王都アヌラーダプラの礼拝堂に祀られていました。
その後、12世紀に王都がポロンナルワに移ったのとあわせて仏歯も移されます。
この頃には、仏歯には神秘的な力によりめぐみの雨がもたらされ発展するという信仰と、
仏歯をもつ者がシンハラの王位の継承者であるという考えが広まります。

そのため、ポロンナルワの他、仏歯は王都が動くたびに移動し、
最後にキャンディの仏歯寺へと通じていきます。

・・・と、とっても歴史の深いペラヘラ祭り。
仏歯寺の外にある博物館?には長年仏歯を運ぶ大役を任されていた仏歯寺の象、
[ラージャ]の剥製もあります。ぜひ訪れてみてくださいね。
→ ラージャの伝説についてはこちらから!


参考までに、昨年のお祭りの様子をちらり!

スリランカ人は朝からレジャーシートで場所取りです
一大イベントですからそれはそれは、場所取りも力が入りますよね!
みんなランチパック持参で陣取っております。

あ、象さん!これから準備するのかな!
ご安心ください。
弊社では鑑賞チケットを手配しますので席は事前に確約。
朝早くから場所取りする必要もありません。

息の合った?踊り

東北出身の私からすると、どこか青森のねぶた祭りや
岩手のさんさ踊りに似てるかな、と思ったり。

夏祭り、という点も共通していますね。

象さんもとっても迫力ありです
熱気にあふれた会場に炎が加わるとさらにヒートアップ!

キャンディ男子の勇姿をぜひご覧ください!

ペラヘラ鑑賞チケットから、キャンディ訪問ツアーまで
まだまだご案内可能です!ぜひ、お気軽にご連絡ください。

□ペラヘラ特集ページはこちらから□
■お問い合わせはこちらから■

Text by Reina Sakamoto

2019-07-25

日本仏教と何が違う?スリランカの仏教について

アーユボワーン!!
ネイチャー・エクスプローラー・ランカの坂本です。

日本では夏もいよいよ本格的になってきた頃でしょうか。
お盆まであと一息、というところですね。
来年の今頃は東京オリンピックか~と思うと胸が躍りますね!

スリランカ、オリンピックといえば1964年の東京オリンピック、
10,000メートル走で「ゼッケン67」を付けて走ったカルナナンダ選手。
1位から三周も遅れた中でも、ひたむきに走る彼の姿に、日本中が感動したそうです。
ただ1人で残るトラックを走ったカルナナンダ選手への拍手は1位の選手の拍手よりも
大きかったのだとか。。。
彼のひたむきな「オリンピック精神」、走りぬくという一途な思いは
今日でもスリランカ人の誇りとしてたたえられているそうです。

今回の東京オリンピックではどんなドラマが見られるのか、
まだ少し先ですが楽しみですね♪

前置きが長くなりました・・・が、気をとりなおして!
本日はタイトル通り、日本とスリランカの仏教の違いについて。
意外と知らない?スリランカの仏教を簡単にではありますがご案内いたします。


スリランカと日本の仏教の違い

スリランカでは仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教を信仰する人々がいます。
その人口比はヒンドゥー教徒が10%、イスラム教徒が8.5%、キリスト教徒が11.3%と
ほぼ同じくらいの比率に対して、仏教徒は70%で全人口の約3分の2を占めます。

スリランカの仏教は上座部仏教です。仏陀だけを信仰の対象としています。
かつては小乗仏教と呼ばれていましたが、大乗仏教から蔑んだ呼称であることから使われることが少なくなりました。テーラワーダ仏教とも呼ばれます。
それに対して、日本の仏教は生きとし生けるものをすべて救おうという大乗仏教です。
ここでは前者の仏教についてさらに詳しく挙げていきます。

ダンブッラ石窟寺院の壁画。座禅を組んで瞑想している仏陀の姿。

上座部仏教の特色

上座部仏教の特色は、出家をして仏陀の境地・涅槃にできるだけ近づこうとすることです。そのために、瞑想を主とする修行を行い、戒律を守ります。
自力で解脱することで、「思い通りにならないこと」=「苦」や欲から解き放たれ、
生まれ変わりの輪廻からも逃れられるとされています。

出家は7歳になれば誰でも出来ます。
10歳頃に髪の毛を剃り、十の戒を授かり、見習い僧『サーマネラ』になります。

ちなみに十の戒は次の通りです。
・不殺生(生き物を殺さない)
・不窃盗(与えられないものを取らない)
・不邪淫(淫らな行為をしない)
・不妄語(嘘をつかない)
・不飲酒(酔わせる酒を飲まない)

(ここまでの五つは一般の者も守ることとされています。)

・夜食を取らない
・花輪や香料で身を飾らない
・寝台ではなくて固い床で寝る
・歌舞音曲をしない
・金銭授受をしない


僧侶は妻帯、異性との関わりは許されていません。
制約が多い生活を送る僧侶ですが、その存在は徳高く、一般人からとても大切にされます。

バスや列車などの公共の乗り物では僧侶に席を譲ります。私も実際、何度も席が譲られる場面に遭遇しています。また、僧侶が乗っている車には道を譲ります。スリランカの仏教社会の中で僧侶はまさにエリート階級なのです。

一方、出家をしない世俗の者は、お寺や僧に寄進して徳を積みます。
そうすることによってカルマ(業、行い)が正され、来世で幸せになれると信じられています。そのため、貧しい家庭でも寺への寄進は無理をしてでも行います。

アヌラーダプラのイスルムニヤ精舎の本堂内に横たわる涅槃仏。
この鮮やかな色は、東京の浅草寺の援助で色の塗り替えが行われたそうです。

どこからいつ伝わったのか

スリランカに仏教が伝わったのは、紀元前247年。
インドのアショーカ王の息子マヒンダが伝えたと言われています。
当時のスリランカの王デーヴァーナンピヤティッサ王は、マヒンダを迎えるためにアヌラーダプラのマハーヴィハーラ(大寺)を建立しました。
以降、長い間アヌラーダプラは仏教の中心地となりました。

このデーヴァーナンピヤティッサ王とマヒンダが出会った場所が
アヌラーダプラから車で片道30分ほどにある、「ミヒンタレー」。

次回はその地に伝わる伝説とともにミヒンタレーについてご紹介させていただきます。

↓アヌラーダプラに関する過去のブログはこちらから↓

Text by Ayana Alles & Reina Sakamoto