2020-08-21

スリランカの歴史⑦ポルトガル植民地時代


スリランカの歴史を辿る第7回。時代は16世紀に入り、欧米列強の植民地支配がスリランカを含め東南アジア世界に迫ってくる時代です。当初の目的はインドやスリランカ、東南アジアとの貿易ルートを掌握し、その利益を得ることでした。しかし結果的には訪問先の内政に干渉し、香辛料等の原産地を侵略し、直接支配を目指すようになっていきます。



1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)






■ポルトガルのスリランカ上陸

 14世紀末にスペインから独立したポルトガルでは絶対王政の確立が進み、そのもとで積極的な海外進出が進められました。1415年にはジブラルタル海峡を挟んだモロッコ北端の要衝セウタを攻略し、エンリケ航海王子のもと本格的に海外進出を始め、ここに大航海時代が始まります。


 地中海の向こう側のアフリカ大陸北岸のイスラーム領域を征服しながら、ポルトガルはアフリカ大陸を西回りに南下。1488年にはアフリカ最南端の喜望峰に達しています。その後1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達、1500年にはペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達するなど、ポルトガルの躍進が続きます。


 そして、1505年にはポルトガルの商船がスリランカのコロンボ港に漂着します。当時のスリランカはシンハラ系のコッテ、キャンディ、タミル系のジャフナの3王国が併存している状態でしたが、コロンボはコッテの支配域でした。コッテ王国はポルトガル船の大砲や銃器などの装備を警戒し、敵対を避けてポルトガルと和平条約を結びます。


 その後は大きな衝突もなく推移しますが、10年後の1515年にポルトガルは軍船を引き連れてコロンボに入港し、要塞の建設を始めます。コッテ王国はこれに抗議して軍を派遣しますが、ポルトガル軍の圧倒的な戦力の前では歯が立たず、実質的にポルトガル商船の自由な入港を認めることになりました。




■コッテ王国の分裂

 コッテ王国がポルトガルと友好関係を築こうとしたのは、当時のコッテの内政状態にも起因していました。国内では内紛が生じており、またキャンディやジャフナといった他勢力の脅威もあり、ポルトガルの軍事力を味方につけることで、これらに対して優位に立とうとする狙いがあったようです。


 しかし、1521年には当時のコッテ国王ヴィジャヤバーフ6世の治世で彼の息子たちによるクーデターが発生し、コッテは3人の王子によってコッテ王国シーターワカ王国ライガマ王国の3つに分割されます。長兄ブヴァイナカバーフ7世はコッテ王国を引き継ぎ、次兄マヤドゥンネのシーターワカ王国に対しての牽制として、ポルトガルとの協力関係を強化していきました。シーターワカ王国はコッテ王国に対抗しますが、ポルトガルに支えられたコッテ軍を破ることは難しく、路線を変更します。シーターワカ王国は、末弟のパララジャシンハの没後に彼が治めたライガマ王国を併合しています(1538年)。


1520年代のスリランカ勢力図。西部はコッテ、シーターワカ、ライガマの3国、
東部はキャンディ、北部はジャフナとワンニ族の勢力下にあった。
画像:Wikipedia (kingdom of Kotte)より引用



コッテ-ポルトガルの連合はスリランカ内での最強勢力となりましたが、これは同時にコッテ王国へのポルトガルの介入も推し進めました。1551年には国王ブヴァイナカバーフ7世がポルトガル兵によって射殺され、新たに孫のダルマパーラが王とされます。しかしダルマパーラはポルトガルの即位はポルトガルによって指定されたものであり、ポルトガルによるコッテ政権の支配は着実に進んでいきました。


 大航海時代の海外進出は、貿易とともにキリスト教の布教もその目的の一つでした。ポルトガルもその例にもれず、1557年にはダルマパーラ王がカトリックに改宗させられています。1560年にはヒンドゥー教国であるジャフナに対してカトリックへの改宗を強要し、これを拒否したジャフナへ進軍するなど、スリランカ全域に対して支配を強めていきます。コッテ王国含め、仏教徒であるシンハラ人に対しても布教活動が行われました。


 1565年にはコッテからコロンボの現在のフォート地区への遷都をダルマパーラに求め、また1571年からはゴールに城砦を建設するなど支配基盤の整備を進めます。さらに1580年には、ダルマパーラに対して自身の死後にコッテ王国をポルトガル国王へ譲ることを約束させています。その後1597年にはダルマパーラが死去し、コッテ王国がポルトガル国王へ寄贈されたことによってコッテ王国は終焉し、ポルトガルによる支配が完成することとなりました。シンハラ人王朝としての王権はキャンディ王国に引き継がれ、仏歯とともに都はキャンディに移ります。


コロンボの現在のフォート地区。金融関連の施設や商業施設が建ち並ぶ官庁街となっている



 コッテの征服に成功したポルトガルは、続いて島内の他の勢力への侵攻を強めます。1618年にはジャフナ王国でカトリック信者が反乱を起こし、ポルトガルはカトリック支援の名目でジャフナに侵攻します。ジャフナはこの時までに既にポルトガルの支配下にありましたが、この反乱を機にジャフナ最後の王であるカンキリ2世が1619年に処刑され、ジャフナ王国は滅亡、完全にポルトガルに掌握されることとなりました。



 コッテ王国とジャフナ王国をポルトガルが征服した結果、スリランカにはポルトガル対キャンディ王国という2大勢力が対峙する構図が残されました。ポルトガルはスリランカ完全征服を目指してキャンディ王国の侵攻に移り、1623年には東部の良港トリンコマリー、さらに1628年にはトリンコマリーから110㎞南の要衝バッティカロアの攻略に成功します。


トリンコマリーの港湾は世界で5番目に大きい天然港であり、支配権を巡って度々争われた
(画像:Google Map 航空写真より)



 劣勢に立ったキャンディ王国ですが、彼らはポルトガルと同じく東南アジアの香辛料貿易を目指していたオランダと結託してポルトガルに対抗します。トリンコマリーを失った後の1627年にはオランダ側からキャンディの王ラジャシンハ2世に使節を派遣しており、これを機にスリランカではポルトガル対キャンディ-オランダ連合という構図が生まれます。


 当時、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの4か国は東南アジアの香辛料の独占を目指して16世紀から激しい抗争を繰り広げていました。特にインドネシアのモルッカ諸島はナツメグの産地として非常に重要な地となります。

 16世紀に各地を制したポルトガルですが、後にスペインが参入し、16世紀後半からはイギリスも参入、1600年にはイギリス東インド会社を設立して基盤を固めます。この動きに刺激されたオランダは1602年にオランダ東インド会社を設立、その後ジャカルタを拠点としてモルッカ諸島の交易を支配し、莫大な利益を享受していきます。この争いはその目的からスパイス戦争と総称され、17世紀まで各地で抗争が続きます。


 スリランカはシナモンの産地として非常に重要な地であり、オランダはこの交易の独占のためにポルトガルの排除を目的としてキャンディ王国と協力関係を結んだのでした。この後、1638年にはラジャシンハ2世がキャンディを包囲したポルトガル軍を撃破、また同年にオランダはトリンコマリーとバッティカロアをポルトガルから奪い、キャンディ王国へ返還。2年後の1640年にはさらに南西部のゴールとニボンゴも攻略しています。


ゴールの城砦(1663年建設)にはオランダ東インド会社の「V.O.C」の紋章が描かれています



 次々に領地を失ったポルトガルは一旦オランダと和平条約を結びます。1645~1650年の間は和平が保たれましたが、徐々に関係は悪化し1656年にはオランダがポルトガルの本拠地コロンボを占領し、ポルトガル勢力はスリランカから一掃されました。


ポルトガル支配から解き放たれたスリランカですが、この後にオランダはキャンディ王国と対立し、徐々にオランダの支配が広がっていきます。以降、18世紀末までの約140年間、スリランカはキャンディ王国による抵抗が続きながらも、オランダの植民地としての歴史を歩んでいきます。



Text by Okada

 


2020-08-14

スリランカの歴史⑥動乱期

スリランカの歴史をご紹介する第6回、今回は13世紀末から15世紀末にかけての動乱の時代を取り上げます。


この時期はタミル人によるジャフナ王国が成立し、シンハラ人王朝と衝突を繰り広げました。シンハラ人王朝はジャフナ王国との攻防の中で島の中央部~西部にかけて何度も遷都を繰り返し、また内部抗争や分裂も激しくなります。さらに、マルコ・ポーロイブン・バットゥータの二人の探検家がスリランカを訪問し、中国の明から鄭和が訪れてシンハラの王を捕らえるなど、国際社会の影響を受け始めます。後に訪れる、欧米諸国の植民地時代への過渡期としても捉えられる時代です。



1.  スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)

2.  アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.  ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.  動乱期(13世紀末~1505年)

5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9. 内戦終結後~現代 (2009年~)



■ジャフナ王国の建国 ポロンナルワ時代から動乱期へ


前回の記事で紹介したヴィジャヤバーフ1世パラークラマバーフ1世ニッサンカ・マッラの3人の名君により黄金時代が築かれたポロンナルワですが、度重なる対外戦闘や公共事業により王国の財政は悪化し、次第にその力を失っていきます。


その中で、南インドからスリランカの北端部であるジャフナ半島へタミル人の入植が始まります。この動きを率いたのはカリンガ国出身と言われるカリンガ・マーガでした。カリンガ・マーガはジャフナ半島からスリランカへの侵攻を始め、1215年にはポロンナルワを占領します。その後はスリランカ北東部を支配下に置き、1258年からは南インドのパーンディヤ朝に従属しますが、1323年にはパーンディヤ朝の政治不安に乗じて独立を果たしました。以降はシンハラ人王朝と衝突を繰り返しますが、14世紀初頭から中頃にかけてはスリランカでの覇権を握るほどに発展していきます。



■シンハラ人王朝の度重なる遷都と興亡


ポロンナルワの王: ヴィジャヤバーフ3世はカリンガ・マーガの侵入を受けて約110㎞南西のダンバデニヤへ遷都します(ダンバデニヤ王国の成立)。さらに13世紀後半にはブヴァイナカバーフ1世によりダンデバニヤから約50㎞北東のヤパフワへ遷都。ここではシギリヤのように周囲の低地から突き出すように盛り上がった巨大な花崗岩の上に、要塞のように宮殿が置かれました。王権の象徴である仏歯もここに移されますが、ブヴァイナカバーフ1世の死後はタミル人国家の侵略を受け、仏歯も奪われています。


しかしその後、後継のパラークラマバーフ3世は1288年にポロンナルワと共に仏歯を奪還し、1293年までポロンナルワに都をおきます。ジャフナ王国の占領によって荒廃してしまった仏教寺院の整備に尽力しますが、この後も遷都は続き、実質的にはポロンナルワに都が置かれたのはこのパラークラマバーフ3世の時代が最後となりました。



パラクラーマバーフ3世によって建設されたランカティラカ (ポロンナルワ)



パラークラマバーフ6世の命で描かれたティワンカ・ピリマゲ寺院の壁画 (ポロンナルワ)



パラークラマバーフ3世の死後、3代にわたってクルネガラを都として統治が続きます。その後一度ダンデバニヤ、ヤパフワを経由し、1353年にはパラークラマバーフ5世によってさらに南下したガンポラに都が移され(ガンポラ王国の樹立)、後継のヴィクラマバーフ3世によって仏歯が奉納されました。



■アラケスワラ(アラガッコナラ)家の台頭


ガンポラに都が置かれたヴィクラマバーフ3世(1359-1374)の治世の時代に台頭し、後のスリランカ支配に関わることになったのがアラケスワラ家(又はアラガッコナラ家)です。この一族の祖となるニッサンカ・アラガッコナラは南インドの現タミル・ナードゥ州のカンチープラム出身の商人であり、13世紀初頭からスリランカに定着したと考えられています。


彼の孫:アラケスワラは、ヴィクラマバーフ3世に仕える大臣としてジャフナ王国に対抗し、現在のスリランカの首都:スリジャヤワルダナプラコッテの地に砦を築きます。この土地は2本の川が交わり沼地に囲まれた防衛に適した地で、「ジャヤワルダナ(勝利の地)」と呼ばれていましたが、この後に「コッテ(砦)」と呼ばれるようになりました。

スリランカは1985年から首都をコロンボからスリジャヤワルダナプラコッテへ変更していますが、その計画を主導したのが当時のジャヤワルダナ大統領でした。大統領はコッテの旧称と自分の名前が同じ「ジャヤワルダナ」であることにちなみ、新たな首都の名を「スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ(聖なる・勝利をもたらす・街・コッテ)」としたとされています。

ジャヤワルダナ大統領 画像出典:J.R. Jayewardene Centre



アラケスワラ
の死後は一族の中で権力を巡った争いが生じますが、アラケスワラ家は王族とも婚姻関係を築き、シンハラ人王朝の中で実権を握っていきます。ジャフナ王国や南インドのヴィジャヤナガル王国など、対外的にも防衛と侵攻を続けました。最終的にはヴィラ・アラケスワラが王権を手に入れ、彼は王名ヴィジャヤバーフ6世として、そしてアラケスワラ家の最期の王として1397年に即位します。



■鄭和艦隊の来島


当時のスリランカの状況を大きく変えた事件が鄭和の艦隊の来島でした。明の永楽帝の命で主に朝貢関係の樹立のために南海への航海を繰り返した鄭和艦隊は、そのすべての航海でスリランカを訪れています。永楽帝の意図としては航海は朝貢関係の樹立と明の示威行為としてのものであり、軍事的なものではありませんでしたが、寄港先の紛争への介入、また襲撃を受けた際の防衛のために兵士も多数乗船しており、実際に彼らが活躍する場面も少なくありませんでした。


鄭和の航路
画像出典:愛宕松男・寺田孝信『中国の歴史 第6巻 明・清』1974 講談社



ヴィラ・アラケスワラはスリランカにおける明の艦隊の存在を危険視していました。またコッテ政権は近隣海域での侵略や海賊行為を行っていたため、明としても手を焼いていたようです。お互いの緊張が高まる中、鄭和の第3回航海、1411年には明-コッテ戦争と呼ばれる衝突が生じます。


各国を巡り朝貢品を載せた鄭和艦隊がコロンボに停泊すると、ヴィラ・アラケスワラは艦隊の宝物を奪おうと奇襲を仕掛けます。鄭和艦隊は逆にこれを返り討ちにしてコッテに侵攻、ヴィラ・アラケスワラを始めアラケスワラ家と王族の人間を捕虜に取ります。捕虜となった王一行は永楽帝のもとに献上され王権を剥奪され、アラケスワラ家の時代は終焉を迎えました。


あくまで平和的な外交を意図していた永楽帝は捕虜の返還を約束しますが、スリランカを支配下に置くために自ら王を任命します。捕虜となった王族が次の王を選定し、明の権威の下で新たにパラクラーマバーフ6世が即位し、コッテ王国が成立します。鄭和艦隊の保護のもと1415年には都がコッテに移り、大陸の超大国の権威を得たパラクラーマバーフ6世は徐々に支配力を強め、1450年にはジャフナ王国も支配下に収めてスリランカ全土を統一しました。



■明による政権更新以降のスリランカ


パラクラーマバーフ6世はスリランカ全土を支配下に収めたものの、明に捕らえられたことでアラケスワラ家とコッテ政権の権威は失墜しており、各地で地方勢力が台頭していきます。1467年にはジャフナ王国が再びコッテ王国からの独立を果たし、真珠や象、シナモンなどの輸出で莫大な利益を得て発展していきます。またキャンディでは14世紀末からヴィクラマバーフ3世のもとで都市整備が進んでおり、ヴィラ・アラケスワラの退位を機に半独立国としての性格を強くしていました。1496年にはセナ・サムマタ・ヴィクラマバフが王として即位し、コッテ王国の支配のもとで発展していきます。


これ以降、スリランカではこのコッテ、キャンディ、ジャフナの3国が主体となり、欧米列強の干渉を受ける植民地時代へと向かっていきます。



Text by Okada


2020-08-07

スリランカの歴史⑤ ポロンナルワ時代

 スリランカの歴史を紹介する第5回。今回はポロンナルワ時代をご紹介します。


ポロンナルワはスリランカ中央部に位置し、従来の都アヌラーダプラから南東に約80㎞離れた町です。チョーラ朝によってアヌラーダプラが占拠されたため、よりチョーラ朝の影響の及びにくい南方の代替の都として発展していきます。


1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)

2.アヌラーダプラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)

3.ポロンナルワ時代 (1073年~13世紀末)

4.動乱期(13世紀末~1505年)

5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)

6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)

7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)

8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)

9.内戦終結後~現代 (2009年~)








■ヴィジャヤバーフ1世の治世


11世紀初頭は南インドのタミル人国家チョーラ朝がラージャラージャ1世、そしてその後継であるラージェンドラ1世の治世で最盛期を迎え、スリランカもその支配のもとに組み込まれます。しかし1055年、スリランカでシンハラ人の王ヴィジャヤバーフ1世はチョーラ朝に対しての抵抗運動を開始し、1070年にチョーラ朝の内政抗争の隙をついて蜂起、1073年にはポロンナルワを奪還します。この際には同じく南インドのタミル人国家ですが、チョーラ朝に敵対していたパンディーヤ朝、またスリランカと同じくチョーラ朝の支配下にあったミャンマーのビルマ人王朝:パガン朝などからの支援もあったようです。


ヴィジャヤバーフ1世は南部のルフナ王国の出身です。スリランカはこれまで大きく3つの地域勢力に分かれており、北部のラジャ王国、南部のルフナ王国、コロンボ周辺のダッキナデサ王国がそれぞれ存在していました。アヌラーダプラやポロンナルワを擁し最大の勢力だったのが島の中央部から北部沿岸までを支配域としたラジャ王国で、これまでのシンハラ人王朝でも他の2勢力に対して支配的な立場にあった勢力です。ヴィジャヤバーフ1世はまず南部の自国ルフナ王国からチョーラ朝の勢力を追放し、徐々に北上してシンハラ人の支配域を奪還していきました。


ヴィジャヤバーフ1世はポロンナルワ王国の国王として即位し、都のポロンナルワは王の名から「ヴィジャヤラジャプラ」と改称されました。その後、ヴィジャヤバーフ1世は国の再興を目指して尽力します。およそ1世紀に渡って従来の都アヌラーダプラを占拠されていた間に、スリランカからは仏教僧が減り、仏教の信仰自体が衰退していました。ヴィジャヤバーフ1世はミャンマーのパガン朝から僧を招き、仏教国としての再建を目指します。また、聖地であるスリ・パダ(スリランカ最高峰のアダムス・ピーク)への巡礼の道を整備し、巡礼路の街の整備も進めて行きます。さらに、新たな貯水池を建設し、灌漑システムを再構築するなど大規模な公共事業を行い、首都の整備も進めて行きます。


ヴィジャヤバーフ1世の建設したアタダーゲ。王権の象徴である仏歯を祀った寺院跡です。



ヴィジャヤバーフ1世は1110年に亡くなるまでの55年間、ポロンナルワの王として君臨し、老齢になるまでの長い支配にちなんで「マハー・ヴィジャヤバーフ」(偉大なるヴィジャヤバーフ)と呼ばれます。現在のスリランカ陸軍の歩兵隊はこの偉大な王の名をとって「Vijayabahu Infantry Regiment」(ヴィジャヤバーフ歩兵連隊)と名付けられています。


この時代はラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力はポロンナルワ王国の下に統治されていましたが、ヴィジャヤバーフ1世の死後はまた王権を巡って3勢力間の抗争が続きます。



■パラークラマバーフ1世の治世

ヴィクラマバーフ1世の死後は彼の兄弟や息子たちの治世が続き、またラジャ、ルフナ、ダッキナデサの3勢力が王権を巡って争う状況が続きました。その中で、3勢力の権力を掌握しスリランカ全島を支配下に置いたのがヴィジャヤバーフ1世の孫、パラークラマバーフ1世です。


パラークラマバーフ1世はコロンボ周辺の勢力、ダッキナデサの王家の出身です。叔父から王位を継いだパラークラマバーフ1世はガジャ国の王ガジャバーフを破ってポロンナルワを獲得し、またガジャ国と同盟を組んでいたルフナ国勢力による攻撃を退け、1153年にスリランカ島の全権を掌握するに至ります。ポロンナルワを都としたパラークラマバーフ1世は、ヴィジャヤバーフ1世と同様に仏教寺院や灌漑設備の建設を進め、33年間の治世の間にポロンナルワは大きく発展していきます。


パラークラマバーフ1世の建設した貯水池はパラクラマサムドラとして知られ、従来からあった貯水池を拡充し、さらに新たな貯水池を追加したものです。面積22㎢に及ぶ巨大な貯水池は現在でも貴重な水源として利用されています。また、ポロンナルワ宮殿ガル・ヴィハーラ等、ポロンナルワに残る遺跡の多くもパラークラマバーフ1世の治世で建設されたものです。彼自身の石像と呼ばれるレリーフも残されています。


パラークラマバーフ1世と伝えられる石像(モデルについては他諸説あり)



ポロンナルワ王宮跡

ガル・ヴィハーラの仏像



また、パラークラマバーフ1世は周辺諸国に対しても影響力を増していきます。友好関係にあったミャンマーのパガン朝でシンハラ人の使者を捕らえたことに抗議して軍を派遣し、また南インドのタミル人に対しても牽制措置をとっています。アダムス・ブリッジのあるポーク海峡を隔ててスリランカと接するラメスワラムにシンハラ人の街を建設し、チョーラ朝パンディヤ朝といった南インドの国家に対してある程度の支配力を維持していました。


また、仏教を通しての周辺諸国との交流も密接で、ポロンナルワには度々タイ、ミャンマー、カンボジア等から仏教僧が訪れていたこともわかっています。トゥマハル・プラサーダはタイの上座部仏教の寺院に類似した仏塔で、タイからの僧、建築士によって建てられたものと考えらえています。


トゥマハル・プラサーダ


ポロンナルワ王国の下でのスリランカの統一、またその統治下での文化の興隆から名君として知られるパラークラマバーフ1世ですが、度重なる遠征や公共事業のために大量の資金を費やし、また国民にも重い税を課しており、国家としての財政状況は芳しくなかったようです。後の統治者であるニッサンカ・マッラの治世では、最も民衆の支持を受けた政策はあまりにも高すぎる税率の引き下げだったそうです。


しかしパラークラマバーフ1世の人気は絶大なもので、次の400年の間にはパラークラマバーフ1世の名を自身の名に採用する君主が7人以上存在していたと伝えられています。また、現在のスリランカ海軍の船にもパラークラマバーフ1世にちなんで名づけられた2隻の軍船が存在しています。



■ニッサンカ・マッラの治世

パラークラマバーフ1世の死後は従弟のヴィジャヤバーフ2世が王権を引き継ぎます。そしてこのヴィジャヤバーフ2世が副王として選んだのがニッサンカ・マッラでした。


ニッサンカ・マッラはスリランカではなく、インドのカリンガ国の出身です。カリンガ国はシンハラ人の祖:ヴィジャヤ王のルーツとなる地であり、ニッサンカ・マッラ自身もヴィジャヤの血を継ぐ者として王権を持つと考えられました。副王としてスリランカに招かれたニッサンカ・マッラはヴィジャヤバーフ2世の王権を継ぐはずでしたが、ヴィジャヤバーフ2世はニッサンカ・マッラと同じくカリンガ国出身のマヒンダ6世によって殺害され、マヒンダ6世が王権を強奪します。


しかしその僅か6日後にニッサンカ・マッラはマヒンダ6世を粛正、ポロンナルワの王として即位します。ニッサンカ・マッラはパラークラマバーフ1世の意思を継ぎ多くの仏教寺院を建設、また貯水池など灌漑設備の拡充に努めました。ポロンナルワに残るランコトゥ・ヴィハーラニッサンカ・ラタ・マンダパヤハタダーゲなどの建築は彼の治世で建設されたものです。また、ミャンマーのパガン朝やカンボジアなどの遠隔地とも良好な関係を築き、南インドに対しても牽制を続けるなど対外政策にも優れた政策を行っていました。カリンガ国出身の王という異色の出自でしたが、人徳のある王として称えられたと伝えられています。

ポロンナルワ最大の仏塔:ランコトゥ・ヴィハーラ


ニッサンカ・マッラが僧の読経を聞いていたというラタ・マンダパヤ



王宮内のニッサンカ・マッラの沐浴場








■ポロンナルワ王国 黄金時代の終焉


民への重税の緩和もあり人気の高かったニッサンカ・マッラですが、パラークラマバーフ1世と同じく多くの公共事業を行ったため、次第に国の資金は枯渇していきました。黄金時代とも呼べるポロンナルワ王国はニッサンカ・マッラの死後急激に弱体化し、再び南インドのタミル人国家による侵入を受けていきます。


1200年にはスリランカ島北端のジャフナ半島にタミル人の入植がはじまり、後の1300年にはタミル人国家ジャフナ王国が建国されます。また、カリンガ国出身のタミル人:マーガ王がジャフナ半島からスリランカへ侵攻し、1215年にはポロンナルワを占領しています。シンハラ人は王権の象徴である仏歯をポロンナルワから持ち出し、以降はスリランカの南部へと遷都を繰り返していくこととなりました。


マーガ王はその後シンハラ人のヴィジャヤバーフ3世の抵抗運動によって廃され、1287年にはシンハラ人によってポロンナルワが奪還されました。しかし1293年にヴィジャヤバーフ3世の治世が終わった後にポロンナルワは放棄され、1900年代のイギリス統治下で発掘が始まるまでジャングルに埋もれることになります。


ポロンナルワ王国の終焉の後、スリランカでは小国シンハラ人とタミル人の各国家が併存する動乱期に入っていきます。



Text by Okada