スリランカの歴史をご紹介する第6回、今回は13世紀末から15世紀末にかけての動乱の時代を取り上げます。
この時期はタミル人によるジャフナ王国が成立し、シンハラ人王朝と衝突を繰り広げました。シンハラ人王朝はジャフナ王国との攻防の中で島の中央部~西部にかけて何度も遷都を繰り返し、また内部抗争や分裂も激しくなります。さらに、マルコ・ポーロ、イブン・バットゥータの二人の探検家がスリランカを訪問し、中国の明から鄭和が訪れてシンハラの王を捕らえるなど、国際社会の影響を受け始めます。後に訪れる、欧米諸国の植民地時代への過渡期としても捉えられる時代です。
1. スリランカ史の始まり (紀元前483年~紀元前161年)
2. アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
4. 動乱期(13世紀末~1505年)
5. ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6. オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7. イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8. スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9. 内戦終結後~現代 (2009年~)
■ジャフナ王国の建国 ポロンナルワ時代から動乱期へ
前回の記事で紹介したヴィジャヤバーフ1世、パラークラマバーフ1世、ニッサンカ・マッラの3人の名君により黄金時代が築かれたポロンナルワですが、度重なる対外戦闘や公共事業により王国の財政は悪化し、次第にその力を失っていきます。
その中で、南インドからスリランカの北端部であるジャフナ半島へタミル人の入植が始まります。この動きを率いたのはカリンガ国出身と言われるカリンガ・マーガでした。カリンガ・マーガはジャフナ半島からスリランカへの侵攻を始め、1215年にはポロンナルワを占領します。その後はスリランカ北東部を支配下に置き、1258年からは南インドのパーンディヤ朝に従属しますが、1323年にはパーンディヤ朝の政治不安に乗じて独立を果たしました。以降はシンハラ人王朝と衝突を繰り返しますが、14世紀初頭から中頃にかけてはスリランカでの覇権を握るほどに発展していきます。
■シンハラ人王朝の度重なる遷都と興亡
ポロンナルワの王: ヴィジャヤバーフ3世はカリンガ・マーガの侵入を受けて約110㎞南西のダンバデニヤへ遷都します(ダンバデニヤ王国の成立)。さらに13世紀後半にはブヴァイナカバーフ1世によりダンデバニヤから約50㎞北東のヤパフワへ遷都。ここではシギリヤのように周囲の低地から突き出すように盛り上がった巨大な花崗岩の上に、要塞のように宮殿が置かれました。王権の象徴である仏歯もここに移されますが、ブヴァイナカバーフ1世の死後はタミル人国家の侵略を受け、仏歯も奪われています。
しかしその後、後継のパラークラマバーフ3世は1288年にポロンナルワと共に仏歯を奪還し、1293年までポロンナルワに都をおきます。ジャフナ王国の占領によって荒廃してしまった仏教寺院の整備に尽力しますが、この後も遷都は続き、実質的にはポロンナルワに都が置かれたのはこのパラークラマバーフ3世の時代が最後となりました。
パラクラーマバーフ3世によって建設されたランカティラカ (ポロンナルワ) |
パラークラマバーフ6世の命で描かれたティワンカ・ピリマゲ寺院の壁画 (ポロンナルワ) |
パラークラマバーフ3世の死後、3代にわたってクルネガラを都として統治が続きます。その後一度ダンデバニヤ、ヤパフワを経由し、1353年にはパラークラマバーフ5世によってさらに南下したガンポラに都が移され(ガンポラ王国の樹立)、後継のヴィクラマバーフ3世によって仏歯が奉納されました。
■アラケスワラ(アラガッコナラ)家の台頭
ガンポラに都が置かれたヴィクラマバーフ3世(1359-1374)の治世の時代に台頭し、後のスリランカ支配に関わることになったのがアラケスワラ家(又はアラガッコナラ家)です。この一族の祖となるニッサンカ・アラガッコナラは南インドの現タミル・ナードゥ州のカンチープラム出身の商人であり、13世紀初頭からスリランカに定着したと考えられています。
彼の孫:アラケスワラは、ヴィクラマバーフ3世に仕える大臣としてジャフナ王国に対抗し、現在のスリランカの首都:スリジャヤワルダナプラコッテの地に砦を築きます。この土地は2本の川が交わり沼地に囲まれた防衛に適した地で、「ジャヤワルダナ(勝利の地)」と呼ばれていましたが、この後に「コッテ(砦)」と呼ばれるようになりました。
スリランカは1985年から首都をコロンボからスリジャヤワルダナプラコッテへ変更していますが、その計画を主導したのが当時のジャヤワルダナ大統領でした。大統領はコッテの旧称と自分の名前が同じ「ジャヤワルダナ」であることにちなみ、新たな首都の名を「スリ・ジャヤワルダナ・プラ・コッテ(聖なる・勝利をもたらす・街・コッテ)」としたとされています。
ジャヤワルダナ大統領 画像出典:J.R. Jayewardene Centre |
アラケスワラの死後は一族の中で権力を巡った争いが生じますが、アラケスワラ家は王族とも婚姻関係を築き、シンハラ人王朝の中で実権を握っていきます。ジャフナ王国や南インドのヴィジャヤナガル王国など、対外的にも防衛と侵攻を続けました。最終的にはヴィラ・アラケスワラが王権を手に入れ、彼は王名ヴィジャヤバーフ6世として、そしてアラケスワラ家の最期の王として1397年に即位します。
■鄭和艦隊の来島
当時のスリランカの状況を大きく変えた事件が鄭和の艦隊の来島でした。明の永楽帝の命で主に朝貢関係の樹立のために南海への航海を繰り返した鄭和艦隊は、そのすべての航海でスリランカを訪れています。永楽帝の意図としては航海は朝貢関係の樹立と明の示威行為としてのものであり、軍事的なものではありませんでしたが、寄港先の紛争への介入、また襲撃を受けた際の防衛のために兵士も多数乗船しており、実際に彼らが活躍する場面も少なくありませんでした。
鄭和の航路 画像出典:愛宕松男・寺田孝信『中国の歴史 第6巻 明・清』1974 講談社 |
ヴィラ・アラケスワラはスリランカにおける明の艦隊の存在を危険視していました。またコッテ政権は近隣海域での侵略や海賊行為を行っていたため、明としても手を焼いていたようです。お互いの緊張が高まる中、鄭和の第3回航海、1411年には明-コッテ戦争と呼ばれる衝突が生じます。
各国を巡り朝貢品を載せた鄭和艦隊がコロンボに停泊すると、ヴィラ・アラケスワラは艦隊の宝物を奪おうと奇襲を仕掛けます。鄭和艦隊は逆にこれを返り討ちにしてコッテに侵攻、ヴィラ・アラケスワラを始めアラケスワラ家と王族の人間を捕虜に取ります。捕虜となった王一行は永楽帝のもとに献上され王権を剥奪され、アラケスワラ家の時代は終焉を迎えました。
あくまで平和的な外交を意図していた永楽帝は捕虜の返還を約束しますが、スリランカを支配下に置くために自ら王を任命します。捕虜となった王族が次の王を選定し、明の権威の下で新たにパラクラーマバーフ6世が即位し、コッテ王国が成立します。鄭和艦隊の保護のもと1415年には都がコッテに移り、大陸の超大国の権威を得たパラクラーマバーフ6世は徐々に支配力を強め、1450年にはジャフナ王国も支配下に収めてスリランカ全土を統一しました。
■明による政権更新以降のスリランカ
パラクラーマバーフ6世はスリランカ全土を支配下に収めたものの、明に捕らえられたことでアラケスワラ家とコッテ政権の権威は失墜しており、各地で地方勢力が台頭していきます。1467年にはジャフナ王国が再びコッテ王国からの独立を果たし、真珠や象、シナモンなどの輸出で莫大な利益を得て発展していきます。またキャンディでは14世紀末からヴィクラマバーフ3世のもとで都市整備が進んでおり、ヴィラ・アラケスワラの退位を機に半独立国としての性格を強くしていました。1496年にはセナ・サムマタ・ヴィクラマバフが王として即位し、コッテ王国の支配のもとで発展していきます。
これ以降、スリランカではこのコッテ、キャンディ、ジャフナの3国が主体となり、欧米列強の干渉を受ける植民地時代へと向かっていきます。
Text by Okada