スリランカの歴史を辿る第7回。時代は16世紀に入り、欧米列強の植民地支配がスリランカを含め東南アジア世界に迫ってくる時代です。当初の目的はインドやスリランカ、東南アジアとの貿易ルートを掌握し、その利益を得ることでした。しかし結果的には訪問先の内政に干渉し、香辛料等の原産地を侵略し、直接支配を目指すようになっていきます。
1.建国神話・先アヌラーダプラ時代 (紀元前483年~紀元前161年)
2.アヌラーダブラ時代 (紀元前161年~紀元後1073年)
5.ポルトガル植民地時代 (15世紀末~1658年)
6.オランダ植民地時代 (1658年〜1796年)
7.イギリス植民地時代(1796年~1948年)
8.スリランカ内戦時代 (1956年~2009年)
9.内戦終結後~現代 (2009年~)
■ポルトガルのスリランカ上陸
14世紀末にスペインから独立したポルトガルでは絶対王政の確立が進み、そのもとで積極的な海外進出が進められました。1415年にはジブラルタル海峡を挟んだモロッコ北端の要衝セウタを攻略し、エンリケ航海王子のもと本格的に海外進出を始め、ここに大航海時代が始まります。
地中海の向こう側のアフリカ大陸北岸のイスラーム領域を征服しながら、ポルトガルはアフリカ大陸を西回りに南下。1488年にはアフリカ最南端の喜望峰に達しています。その後1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達、1500年にはペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達するなど、ポルトガルの躍進が続きます。
そして、1505年にはポルトガルの商船がスリランカのコロンボ港に漂着します。当時のスリランカはシンハラ系のコッテ、キャンディ、タミル系のジャフナの3王国が併存している状態でしたが、コロンボはコッテの支配域でした。コッテ王国はポルトガル船の大砲や銃器などの装備を警戒し、敵対を避けてポルトガルと和平条約を結びます。
その後は大きな衝突もなく推移しますが、10年後の1515年にポルトガルは軍船を引き連れてコロンボに入港し、要塞の建設を始めます。コッテ王国はこれに抗議して軍を派遣しますが、ポルトガル軍の圧倒的な戦力の前では歯が立たず、実質的にポルトガル商船の自由な入港を認めることになりました。
■コッテ王国の分裂
コッテ王国がポルトガルと友好関係を築こうとしたのは、当時のコッテの内政状態にも起因していました。国内では内紛が生じており、またキャンディやジャフナといった他勢力の脅威もあり、ポルトガルの軍事力を味方につけることで、これらに対して優位に立とうとする狙いがあったようです。
しかし、1521年には当時のコッテ国王ヴィジャヤバーフ6世の治世で彼の息子たちによるクーデターが発生し、コッテは3人の王子によってコッテ王国、シーターワカ王国、ライガマ王国の3つに分割されます。長兄ブヴァイナカバーフ7世はコッテ王国を引き継ぎ、次兄マヤドゥンネのシーターワカ王国に対しての牽制として、ポルトガルとの協力関係を強化していきました。シーターワカ王国はコッテ王国に対抗しますが、ポルトガルに支えられたコッテ軍を破ることは難しく、路線を変更します。シーターワカ王国は、末弟のパララジャシンハの没後に彼が治めたライガマ王国を併合しています(1538年)。
1520年代のスリランカ勢力図。西部はコッテ、シーターワカ、ライガマの3国、 東部はキャンディ、北部はジャフナとワンニ族の勢力下にあった。 画像:Wikipedia (kingdom of Kotte)より引用 |
コッテ-ポルトガルの連合はスリランカ内での最強勢力となりましたが、これは同時にコッテ王国へのポルトガルの介入も推し進めました。1551年には国王ブヴァイナカバーフ7世がポルトガル兵によって射殺され、新たに孫のダルマパーラが王とされます。しかしダルマパーラはポルトガルの即位はポルトガルによって指定されたものであり、ポルトガルによるコッテ政権の支配は着実に進んでいきました。
大航海時代の海外進出は、貿易とともにキリスト教の布教もその目的の一つでした。ポルトガルもその例にもれず、1557年にはダルマパーラ王がカトリックに改宗させられています。1560年にはヒンドゥー教国であるジャフナに対してカトリックへの改宗を強要し、これを拒否したジャフナへ進軍するなど、スリランカ全域に対して支配を強めていきます。コッテ王国含め、仏教徒であるシンハラ人に対しても布教活動が行われました。
1565年にはコッテからコロンボの現在のフォート地区への遷都をダルマパーラに求め、また1571年からはゴールに城砦を建設するなど支配基盤の整備を進めます。さらに1580年には、ダルマパーラに対して自身の死後にコッテ王国をポルトガル国王へ譲ることを約束させています。その後1597年にはダルマパーラが死去し、コッテ王国がポルトガル国王へ寄贈されたことによってコッテ王国は終焉し、ポルトガルによる支配が完成することとなりました。シンハラ人王朝としての王権はキャンディ王国に引き継がれ、仏歯とともに都はキャンディに移ります。
コロンボの現在のフォート地区。金融関連の施設や商業施設が建ち並ぶ官庁街となっている |
コッテの征服に成功したポルトガルは、続いて島内の他の勢力への侵攻を強めます。1618年にはジャフナ王国でカトリック信者が反乱を起こし、ポルトガルはカトリック支援の名目でジャフナに侵攻します。ジャフナはこの時までに既にポルトガルの支配下にありましたが、この反乱を機にジャフナ最後の王であるカンキリ2世が1619年に処刑され、ジャフナ王国は滅亡、完全にポルトガルに掌握されることとなりました。
コッテ王国とジャフナ王国をポルトガルが征服した結果、スリランカにはポルトガル対キャンディ王国という2大勢力が対峙する構図が残されました。ポルトガルはスリランカ完全征服を目指してキャンディ王国の侵攻に移り、1623年には東部の良港トリンコマリー、さらに1628年にはトリンコマリーから110㎞南の要衝バッティカロアの攻略に成功します。
トリンコマリーの港湾は世界で5番目に大きい天然港であり、支配権を巡って度々争われた (画像:Google Map 航空写真より) |
劣勢に立ったキャンディ王国ですが、彼らはポルトガルと同じく東南アジアの香辛料貿易を目指していたオランダと結託してポルトガルに対抗します。トリンコマリーを失った後の1627年にはオランダ側からキャンディの王ラジャシンハ2世に使節を派遣しており、これを機にスリランカではポルトガル対キャンディ-オランダ連合という構図が生まれます。
当時、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの4か国は東南アジアの香辛料の独占を目指して16世紀から激しい抗争を繰り広げていました。特にインドネシアのモルッカ諸島はナツメグの産地として非常に重要な地となります。
16世紀に各地を制したポルトガルですが、後にスペインが参入し、16世紀後半からはイギリスも参入、1600年にはイギリス東インド会社を設立して基盤を固めます。この動きに刺激されたオランダは1602年にオランダ東インド会社を設立、その後ジャカルタを拠点としてモルッカ諸島の交易を支配し、莫大な利益を享受していきます。この争いはその目的からスパイス戦争と総称され、17世紀まで各地で抗争が続きます。
スリランカはシナモンの産地として非常に重要な地であり、オランダはこの交易の独占のためにポルトガルの排除を目的としてキャンディ王国と協力関係を結んだのでした。この後、1638年にはラジャシンハ2世がキャンディを包囲したポルトガル軍を撃破、また同年にオランダはトリンコマリーとバッティカロアをポルトガルから奪い、キャンディ王国へ返還。2年後の1640年にはさらに南西部のゴールとニボンゴも攻略しています。
ゴールの城砦(1663年建設)にはオランダ東インド会社の「V.O.C」の紋章が描かれています |
次々に領地を失ったポルトガルは一旦オランダと和平条約を結びます。1645~1650年の間は和平が保たれましたが、徐々に関係は悪化し1656年にはオランダがポルトガルの本拠地コロンボを占領し、ポルトガル勢力はスリランカから一掃されました。
ポルトガル支配から解き放たれたスリランカですが、この後にオランダはキャンディ王国と対立し、徐々にオランダの支配が広がっていきます。以降、18世紀末までの約140年間、スリランカはキャンディ王国による抵抗が続きながらも、オランダの植民地としての歴史を歩んでいきます。
Text by Okada